エッセイ 晒し一巻きほどの人生(「まぼろしを織る」ほか感想)
私の母は浅草の靴職人の家に産まれた。高校生の頃、祖父が競馬の借金で首が回らなくなった上に酒浸りになったため、祖母に連れられて叔父と一緒に名古屋まで逃げてきた。祖父から逃げてきたはいいが、名古屋の方に親類がいるわけでもなかったらしく、しかも転居してほどなく連れてきた祖母が亡くなってしまったため、母は叔父を食わせるため10代で就職して働いた。
ほしおさなえ著「まぼろしを織る」を読んだ。絹織物の仕事を手伝う主人公と、織物に魅せられる青年、そしてその青年に関する謎をめぐる、生きることについての物語だ。
主人公はコロナ禍で一度職を失っており、また生い立ちのせいもあって、生活することに関して甘くはない見解を持っている。叔母である伊予子が甥(主人公にとってはいとこ)の青年(綸)を短期間預かることを聞いたとき、こんなことを思う。
ふと、母のことを思い出した。
主人公はまだ20代の女性だけれど、そういう厳しさを、母のようだと思った。違うのは「引き受けて」しまうところで、若干複雑だった実家から母と私たちが身一つで追い出される度に、母は必死で私たち子どもを引き受けようとしていた。例え子供でも、子供だからこそ、母一人で引き受けるのは容易なことじゃない。だから私たち子供はどんなに走り回っても、床に頭を擦り付けても、必死で母を家に戻そうとした。それが正解だったかはわからないのだけど。
主人公のいとこの綸は、物語を引っ張るもう一人の主人公だ。事件に巻き込まれ、心を閉ざしていたが、主人公の手伝う工房で藍染の糸を織り、自ら染めながら心を取り戻していく。登場してから殆ど言葉を話さなかった綸が鳥を見て話し出した時、彼の青は空の青なのだと思った。私の青は海の青だ。青色の何かを見せた時、海の色だと思うか空の色だと思うかでその人がどこの産まれかわかるんじゃないだろうか。この子はきっと陸の人で、私は、海辺の人間だ。同じ色を見て違うことを考えるのを、とても不思議に思っている。
サムネイルに布が2枚写っている。生成の布は、大学生の頃私が織った布だ。縞模様は母の織った布。母はこの布で私に着物を作ってくれた。青の濃淡でできた縞模様を波のようだと私は思う。
私の住んでいる地域は古くからの木綿の産地である。中でも、晒しが有名だ。私の幼い頃母は晒しの布からオムツを縫う内職をしていた。工業用の足踏みミシンが家にあって、すごい速さで直線縫いをしていく母を見て、ミシンとはこういうものだと思い込んだ私は、家庭科の時間に超高速で電動ミシンを働かせ、危ないからと先生に怒られた。
地域産業の要だった繊維業は、私が高校生になる頃には衰退期に入っていた。工場の跡地がホテルになったり、大型スーパーになったり。それでも地域の伝統産業を残そうと、広く市民に開放していた織物工房で、子供の手が離れた母は織物を習った。
綿花から糸を紡いだり、草木染めで糸を染めたり、織物をする母はとても楽しそうだった。元々何かを作るのが好きな人だったし、織物仲間と触れ合うのが楽しかったのだと思う。せっかくだからと私にも教えてくれた。それで織ったのが写真の布で、大学2年の夏休みまるまるかかった。
写真にある黒い方の本は「はじめての織物」という、その時教科書代わりに使った本だ。母が工房でとったメモの中の不明な点を調べるのに使った。移り変わりの早い私の本棚の中で、昔からある本の一つである。今では「はじめての織物」を始めようとする人も少ないだろう。
布は、もしくは布を作るための糸は、まるで先生のようである。
焦ったり、ずるをしたり、怠けたりしたら、全部こちらに返ってきてしまう。ほんの少しの短気で糸はよれ、ねじれ、絡まって切れる。実は、切れてもいい。結んで繋げれば、また作業を続けられる。ミスを許してくれるのもまた先生のようで、その代わり、結んだ跡は、出来上がりにはっきり影響する。ただひたすらに穏やかに、根気よく、凪のような気持ちで作業を続けると、艶のある滑らかな布地になって、糸はこちらに返ってくる。
というとなかなかかっこいいのだけれど、反物にも満たない晒しの生地を一巻き織るのだけでも、私には大仕事だった。「まぼろしを織る」に出てくるのは絹織物工房で、きっと糸はもっと繊細だと思う。とはいえ木綿でも布を織るのは本当に大変で、糸を撚り、染めて、くるくると整理して、機織り機にセットする(これが本当に根気のいる作業なのですよ)。そしてただひたすら、穏やかな気持ちで縦糸に横糸をはわせては押さえる繰り返す。母はこれを何度もやったのだ。驚嘆に値する。
ある謎を解くことや、染色を通して、「まぼろしを織る」の主人公たちは生きることの意味について考える。染色を通して綸がたどり着いた答えは、とても強いものだと思う。
まぼろしでもいいから、何かを追いかけ、作り続ける彼らと、私の母とではひとつ違うところがある。彼らの作る布が絹織物で、一種の芸術作品なのに対して、母が織っていたのは木綿で、工業製品的な庶民の布だということだ。
「機を織れないものは、嫁に行けぬ」。母の習いに行った工房のあるあたりでは普通の家にも自家用の機織り機があり、女性の内職としてこう言われるまで誰もが織ったものだという。木綿の布の使い道はせいぜいが浴衣で、売られるものは晒しとして子供のオムツになったり、台所仕事に使ったり。白い布が真っ黒になるまでよく働いたことだろう。
実のところ写真の布を織るさい、「糸は私が用意してあげるから、何か簡単な縞模様を織る?」と母に言われていたのに、無地の生成りを織ることにしたのは私自身である。なんでもない、生成りの、働き者の布が私は好きなのだ。特別美しくはないが、丈夫で、じゃぶじゃぶ洗えて、みんなの役にたつから。
母が自分の織った布で着物を作ってくれたように、私は写真の布で手提げカバンを作った。カバンの表面には母の誕生日の頃に咲く金木犀を刺繍した。犬の散歩の時に下げていくと言っていた。使って、ぼろぼろになったら、また作ればいいと思っている。刺繍も縫製も、今度はもう少し上手にできるはずだ。幸い、まだ布は残っている。たくさん織ったからね。
失礼な言い方でないといいのだけれど(身内だから許してほしいなあと思うのだけれど)母はきっと社会的には「何者でもない」人だ。苦労人ではある。とはいえ立派な学校を出たわけじゃない。結婚後は家にかかりきりになって、お金持ちになれたわでもないし、育てた子どもたちが特別何かを成し遂げたわけでもない(ごめんなさい)。
けれど、そんな母でも、織物を織ることはできる。高級品ではなく、じゃぶじゃぶ洗える木綿の布だ。昔の女性はみんな織った、働き者の布。
私は、それは、とてもすごいことなんじゃないかと思う。
何者でもない母や私にも、一巻きの滑らかで丈夫な布を織ることができる。着物にしたり、カバンにしたりして、誰かに手渡すことだってできる。この布に必要なのは根気と時間で、特別な才能ではない。まぼろしも、多分追いかけていない。働き者の晒しの布は、私たちが何者でもないことを許してくれる。途中で糸が切れちゃってできた結び目があったり、焦ってできた引き攣りがあったりしても、まあそれなりに、こんなもんですよ、と堂々としていてくれる。
本当のところ、本を手に取って、それが織物の話で、私は少しびっくりした。そして青い糸や染色の話が出て、更に驚いて、出てくる布が絹織物で、それが作品として追い求められていく姿を見て、昔晒しの布を織った自分をなんだか自分らしいと感じて、少しおかしく思った。本当に、自分らしい布を織ったものだと思う。
もしかして、自分は、一生、青い絹織物のような美しい何かを作ることはないのかもしれない。本当に人の心を動かすものを作るには追い求める強いまぼろしがきっと必要だ。少なくとも私はそう思う。それは「何者にもなれないかもしれない」という苦しさを産むものでもあるのだろう。けれど私には「何者でもない」というのをほんの少し嬉しく思うようなところがある。ただの生成りの布を好むようなところ。多くのことを望めなかった、母の生き方を尊ぶようなところ。
一生かかって織り上げた何かが、ただの晒しの布でも、きっと自分は後悔しない。誰かの役にたつ布を織って残したのだ。そんな素敵なことがあるだろうか。本当に、毎日は布を織るように繰り返し進む。縦糸は見えるのに、どんな布になるのかはただのまぼろしでしかない。だってこれから自分が作るのだ。横に這わせられるのは手元にある糸だけ。これですら、一年かかって収穫して、必死に紡いだ自分にはなけなしの糸だったりする。「生きてりゃあなんとでもなるからね」。母の口癖を思い出す。確かにとりあえず糸があれば布はできる。とはいえできるのはできることだけ。私は私の布を織るしかない。大丈夫。ダメだったら、また次を織ればいい。
登場した本
「まぼろしを織る」ほしおさなえ(著) 2024年1月 ポプラ社
絹織物と藍染と、生活すること、生きていくことの本です。青年の見た謎を縦糸に主人公たちの痛みや迷いが綴られていきます。自分は何者でもないのではないか、しかもこれからなれることもないのではないか、という痛みを抱えたことのある方に是非読んでいただきたい物語です。
「はじめての織物:手づくりの機から絣まで(新技法シリーズ)」荒木 峰子 (著) 1978年3月 美術出版社
「手づくりの機」とあるように、棒で縦糸をぶら下げるタイプの簡易織り機などの紹介もある本です。自分で何かを作ろう、という人のためにいろんな技法を紹介したシリーズで、巻末のシリーズ紹介には「『プリントゴッコ』のハイテクニック」なんて時代を感じさせる書名もあります。