エッセイ ごくありふれた あなたとわたし(小川洋子「遠慮深いうたた寝」感想文)
お話の中の登場人物が「あなた」と「わたし」だけで済むのなら、それで済ませてしまいたい。
別に怠けているわけじゃない。名前が沢山提示される物語がちょっと苦手なのだ。誰が誰だか分からなくなる。
それはけして物語のせいではなく、自分の脳みその問題だと思う。
会話するときは、だいたい2人。いいところ3人。つまり、「あなた」と「わたし」と「あのひと」で。それより多い時はほぼその場の全員を把握しきれていない。ごめんなさい。
小川洋子さんのエッセイ集「遠慮深いうたた寝」を読んだ。自身の小説に出てくる登場人物たちの名前についてこう仰っている。
そういえば、そうだ。小川洋子さんの小説には個人の名前がほとんど出てこない。そして、私にはそれがとても読みやすい。なんていうか、楽なのだ。
「裕太が」などと、突然物語に誰かが出てくるたびに、私は強制的にその人の人となりを、名前を通じて覚えさせられる。なんだか、脳にぎゅうぎゅう情報を押し込まれるような感じがする。多分、普通の人は大丈夫なのだろう。でも、私は人の名前を覚えるのが極端に苦手だ。たくさんの人を記憶し続けることもできない。シーンから裕太さんが一旦退場する。よかった。少し脳が楽になる。けどまた再登場したとき、暗黙の了解のもと、私は思い出さなければならないのだ。裕太さんがどんな人であったのかを。
その点、「小父さん」「令嬢」といった呼び名は楽だ。自分が単語から想起する「小父さん」や「令嬢」を、出てくるたびに思い起こせばいい。ほんの、要素だけ。『ガサガサした声』とか、『優美なつま先』とか、名前のついた個人の特徴をいちいち覚えておかないですむ。いや、ほんとは覚えておかなければいけないんだろうけど、そういうのは普段、その人とゆっくり付き合ってなんとなく覚えるのであって、いきなり名乗られて列挙されても覚えられない。覚えられないんだよ。ごめん。ごめんたら。
考えてみると、動物物語についても同様のことが言える。登場人物が「犬」と「猫」なら、読む人は自分の中の犬と猫をなんとなく想起するだけですむ。けどこれが「ポチ」と「タマ」なら特定の生き物だ。『いつも毛が縮れてて怒っていそうなポチ』だとか『甘えん坊のくせにちっとも撫でさせてくれないタマ』だとか、そうした個々の特徴が名前にくっついてくることになる。
昔の大衆芸能が、登場人物をみんなおんなじ名前にしている(「太郎冠者と次郎冠者」、「ハチ公とクマ」、「パンチとジュディ」など)のも、同じ理由であると思う。こうしておくと、出てきた人たちの特徴をいちいち覚えておかなくていいから、すごく楽に話を見聞きすることができる。彼らは、「太郎冠者」という特定の生き物ではなくて、その辺のありふれた「召使いの人」だ。自分の個性を覚えるよう、観客に要求してこない。「わたしとあなた、あと、あのひと」で普段暮らしている私でもついていける。
小川洋子さんは先ほどの文をこう続けている。
あ。ちょっと私と事情が違う。作品への愛を感じる。そうか。愛なのか。
でも、そうだと思う。
現実世界で何かを見聞きするとき、私たちはその人の名前なんか大抵しらない。『スーパーで店のお姉さんがすごいくしゃみをした』という話をするとき、『お姉さんの名前は智恵子』は、とりあえずどうでもいいし、『お姉さんの名前を智恵子とする』などという暴挙にも出ない。今大事なのは『すごいくしゃみ』のことだ。そして智恵子さんは『スーパーの人』という以上の情報を必要としない。それ以上はノイズのように感じる。私たちは周りの人の全てを「個」としては認識していない。多かれ少なかれ、みなそうだと思う。そうでなければ情報量が多すぎる。把握するだけで潰れてしまう。(これは、小川さんが言っている『人生で唯一、自分自身の証拠となる名前』の裏返しであると思う。名前のついた個人が大事であればあるほど、名前のない個人も沢山いる。全ての人を大事にはできない。もしできたとしたら、それは『大事にしている』ではない。特別扱いではないからだ。)
こりもせず、小さな物語を書く。「わたし」と「あなた」ー。ごくありふれた、特別な個性のない、その辺にいる人たちの話。名前はきっとあるけど、つけるのは私でなくてもいい。
出てきた本
「遠慮深いうたた寝」小川洋子 河出書房新社
小川洋子さんの9年ぶりのエッセイ集です。陶器のような装丁がめちゃくちゃ美しいです。本当に、文学が好きな方なんだと思います。静謐で、少しとぼけたようなところがある著作の大ファンです。
特に内田百閒の「件」のついて論じた文は、小川さんの小説に対する真摯な態度が窺えて胸に響くものがありました。こういう文章に出会うたびに、ノートに書き写しておきます。宝物です。