エッセイ 「おいしい」は勇気のいること(「私の生活改善運動」感想)
昔、一緒に食事に出かけた同僚の女性に「これは『おいしい』で大丈夫なんですよね?」と聞かれたことがある。「あなたがそうなら、そうなのでは?」と聞き返したら寂しそうな顔をされた。
話を聞くと、「おいしい」ということに自信がないのだそうだ。元の彼氏に「味音痴」だとか「子供舌」だとか、散々そんなことを言われたらしい。好き嫌いが分かれるのは悪いことじゃないと思う。マザーグースも歌っている。
ジャックが赤身好きで奥さんは脂身が好き。だからお肉はすっかり平らげられる。素晴らしい。皆幸福に、無駄なくお皿が空になった。
「なんと言われてもあなたが『おいしい』なら関係ないのでは?」
心からそう言うと、同僚がびっくりした顔をした。そんなことを言われたのは初めてだというのだ。今度は私がびっくりした。なんで他人に『おいしい』を決められないといけないんだ。彼氏がダメだったとしても、他の誰かがそう言ってやれよ。
安達茉莉子 著「私の生活改善運動」を読んだ。本棚から始まり、衣食住全般へと著者が生活を見直していくエッセイだ。長年の一人暮らしという立場が自分に近く、共感するところが多かった。
その中で、食べることに関してこういう記述があった。
すぐに同僚のことを思い出した。そして他にもこういう心の傷のある人がいることに驚いた。実は自分も『味覚がおかしい』と言われたことはある。しかも何度かある。しかしそれはいくつかの違う種類の指摘が混ざっているように思われる。なるべく本音に近い(と推測される)言葉に翻訳するとこうだ。
「そんな辛いもの食べられない」(激辛カレーを食べたとき)
「そんな苦いもの食べられない」(ゴーヤの漬物を食べたとき)
「そんな生臭いもの食べられない」(このわたを食べたとき)
……なにか、わたしの何でもかんでも食べるぶりが恥ずかしくなってくるが、この指摘でショックを受けたことはほとんどない。(受けたほうがいいのかもしれない。)でも、しょうがない。食べるもんは食べる。
家族にも言われたことがある。父親にだ。これはおそらく著者の経験に近い『おいしい』の否定だったと思う。でも私は著者のようには思わなかった。
この人は、誰か(多分勤め先の誰か)にそういう形で恥をかかされたことがあるのだ。
ただ、そう思った。上等なものにしか『おいしい』と言ってはいけない社会があって、田舎出の父親はそこで否定されたのだろうと。だから今度は他人にそれを言うのだ。そんな『おいしい』はちょっと嫌だった。私は決して、自分の『おいしい』を父親に渡さなかった。安くても不出来でも、自分がおいしければ何にでも『おいしい』と言った。(今考えると、きっとかわいくない子供だった。父親に悪いことをしたのかもしれない)
「自分がおいしいなら、おいしいでいいと思うよ」と私に言われた同僚は、帰りの車で手持ちのお菓子を「おいしいおいしい」と嬉しそうに食べた。あんまり嬉しそうなので私は「食べたばっかりなのに?」という言葉をのみこんだ。そして満腹のお腹に差し出されるままお菓子を詰め込んだ。
どうして、他人に「おいしい」かどうか決めてもらわないといけないんだろう。なんか、すごく変だ。味覚は自分だけの感覚で、他の誰にも判別できないのに。
「私の生活改善運動」では、著者が少しずつ生活を見直していく過程でYさんという友人に出会い、『幸福』について考える。
「幸せなほうを選ぶということに罪悪感がある」という感覚はよくわかる。どうしてかは、うまく答えられない。多分資格がないと思っているのだろう。もしかしたらこれは「おいしい」というのに誰かの承認を求めてしまう同僚と同じなのかもしれない。だって、「幸せ」も私の中にあるもので、誰にも判断できないのだから。
「私は幸せです」。そう宣言するのはひどく恐ろしいことに思える。「おいしい」は同僚にとってきっとそういう言葉なのだろう。へんてこだな、私は同僚のことをそう思ったけれど、私も同僚と同じくらいへんてこだ。彼女の「おいしい」は誰も彼女にあげることができない。だってもともと彼女のものなんだもの。私の「幸せ」もそうだ。誰も私に与えられない。
あれがないとか、もう今頃はこうだとか、いろいろ言われたりするけれど、コーヒーを飲んだり、本を読んだり、たまに友達と話したりもする。こうやって、好きな文章を書く場所もある。評価されなくても、批判されても、おいしいのかもしれない、毎日。
そう。きっと、いいのだ。おいしい方を選んでも。
紹介した本
「私の生活改善運動THIS IS MY LIFE」安達 茉莉子(著)
2022年9月 三輪舎
コロナをきっかけに職を失った著者が長年住んだマンションを引っ越し、新しい生活づくりをした記録。もZINEだったものをまとめたものだそうです。
基本的には自分の好きなもの、気に入ったものと暮らすことにした、ということなんですが、その「好きなもの」を自分は暮らしの中でついつい忘れてしまうんですよね。