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ファッション多様性が嫌い

タイトルがちょっと強い表現でごめんなさい。

他大学のゼミや、同じ大学の他ゼミの発表を3年間みてきた。
私が研究してきているものとは違う知見や、テーマが溢れていてそれを学ぶたびに自分の学びが蓄積されていくのをよく実感する。

ここ数年で多様性やら多文化共生やらダイバーシティやらインクルージョン等の言葉を色んな場所で耳にするようになった。


多様性認め合うの大事だよね、とかマイノリティに対してもっとこうしようね、とか。


もちろんそういう風潮は嬉しいけれども、周りを見ていると「多様性を認める自分に酔っちゃってない???」っていうヒトがいる。

自戒として自分の心にその言葉を留めながらも、私はそういうヒトを見る度に悔しくなる。


キラキラしたゼミで多文化共生実現に向けてワークショップとか開いてます!これを企画して実践しました!とか私は嫌い。


なんでかって私が見てきたそういうゼミ全部、行動を良いことだと考えて行動する意義に疑問を持ってないから。他人事のように実践してるから。


マイノリティがいたらそれを支援する、認知を広める。でもその支援って?認知を広める自分の行動に対して批判的な目を向けてきたことある?

私たちが一方的に行う支援やまなざしは果たして正しいの?

多様性なんて認め合うって口で言うのは簡単だけど私にとって「多様性」っていうのは考えてぶつかって行動してもまた自分の行いを振り返って、常に「多様性って何だろうか、私が行なっていることは正しいのか」と思案しながら自分が自分に対して批判的な目線を向け続けることで得られるものであってちょっと行動したから良いとは全く思わない。

それと、自分の中にもバイアスがあってそのバイアスに気づき続けること、自戒を込めて「こういうバイアスが私にはあるんだ」と言語化して誰かに表象していくことで初めて自分の中にあるアンコンシャスなバイアスから一歩抜け出して、多様性の中に取り込まれるんじゃないだろうか。


そういう意味で世の中にはこういうアンコンシャスバイアスがあるだとか、こういう課題があるんだと他人事のように提示しているヒトが私は嫌いだし、反吐が出る。ファッション多様性でしかない。


トレンドになっている多様性に貢献している自分が好きなだけだ。自分の恥やバイアスがあると口では言いながらも具体性を伴わないやつはファッションで好きなだけなんじゃないか。


だから世の中にこういう課題があると提示するなら、自身の当事者性や加害性をオープンに取り込んでほしい。

当事者のことは当事者にしか分からないとは思わない。けど、誰もが何かしらのマイノリティの部分持っているならそれを是非主張してほしいし、マジョリティの部分を持っているなら自分ごととして捉えてほしい。

マジョリティという立場に安住しながらマイノリティに目を向けるとかいうファッション多様性をしている自分に気づいてくれることを願う。


自戒も込めて。

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