誰かにとっての「普通」は私にとっての「普通」ではない
Netflixに『あのこは貴族』が登場し、予告編が流れてきた。
水原希子が田舎の出、門脇麦が良家の娘を演じる。
設定的に逆では?と思ったのだけれど、たった数分の、言葉を交わさないシーンに引き込まれた。
水原希子演じる美紀がカトラリーを落とし、門脇麦演じる華子がそれをサッとカバーする。
華子の首もとにうつるネックレスはヴァンクリーフのフリヴォルらしい。
このたった一瞬のシーンと2人の演じる姿が面白いと思って早速原作を読んだ。
私の階層はいわゆる中流に当たると思う。
地元の小中高を経て大学へと進んだ。
大学生までの22年間を歩んできて、類は友を呼ぶというように友達の階層も同じ人たちが多くなってきた。
公立で義務教育だった小中は学区ごとに分けられるだけだから色んな境遇の人たちが集まる。
だからこそ面白いことも辛いこともあった。それぞれの家庭によって違うことも多かった。
でも高校受験をして偏差値で区切られるようになると、
ある程度勉強ができる環境でしっかり教育を受けてきた子達が集まるようになった。
そうして大学受験まで進んで、自分と同じ一定水準の経済力や学力が満たされた人たちと一緒に過ごしている。
1日の生活が脅かされることもない、かといって豪遊できるような生活があるわけでもない。安いお店で食べつつも時には高いお店で楽しむ。
それが私の「普通」。
私は私と同じ「普通」である人たちの世界線の中で生きていて、そうでない人たちはテレビの向こう側なのである。
政治家も、芸能人も、ホームレスも、農家も、すべて。
自分と似たような環境で過ごしてきた人たちと関わるからこそ分からなくなる。
自分にとっての「普通」は誰かにとっての「普通」ではないことを。
本はフィクションだけれど、日本の中にも階層階級があるんだってことを突きつけられる。それだけじゃなく、「女」としてどう生きることが幸せなのかを読者に突きつけている。
東京生まれで東京でずっと暮らしてきた華子にとって、家とその周りが「普通」で、
良い人に出会って結婚して子供を産んで、女性としての幸せを掴むことが「普通」であり「理想」で。
美紀は家庭の事情に揉まれ、大学を中退しながらも自身に生き方を探り続けて自力で掴んできた。
大学生でお茶することが高いカフェに行くことは彼女にとって「普通」ではなかった。
美紀が辿ってきた道が美紀にとっての「普通」で、結婚することは美紀にとって幸せで当たり前のことではなくて。
ここグーッと心に刺さるものがある。
多様が謳われるこの時代に結婚することが良いと思っている人は多くないと思う。
私自身も結婚に夢見ているとかそんなわけではないけど、
今後結婚する人たちが周りに増えていく中での焦りや辛さを感じることが容易に想像できるのが怖い。
「普通」ではないと頭では分かってながらも長年縛られてきた社会の「普通」の価値観が壊されるのは難しいのではないか。
社会の価値観だけでなく自分が育ってきた環境のぬるま湯に浸かり続けて「これが「普通」だ」と誰かに押し付けてしまうんじゃないかとも最近思う。
こういった周りの「普通」に形成された私の「普通」を壊したいなと思う。
そのために自分と関わることのなかった世界に飛び込むということは物凄く大事なのではないか。
華子が最終的に自分の「普通」とはかけ離れたような場所で活躍し、自身の人生を謳歌している様子を見ていると思う。自分の普通の世界線で暮らして生きているのって勿体無いなと。
だからこそ留学であったり、自分と関わることがなかった人たちと出逢いに行く機会や経験というのは自分を知るためにも、自分の中の普通をズラすためにも、必要なことであると思う。
だからこそ多くのものに飛び込んでみたい。
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