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ジャン・カルヴァン『キリスト教綱要 初版』試論①


はじめに

 本稿ではジャン・カルヴァン(Jean Calvin, 1509-1564)の著書『キリスト教綱要 初版』(Christianae religionis institutio, 1536)を読む。 本書はいわゆる組織神学(Systematic theology)の最初期の代表的著作とされている。つまりカルヴァンは聖書の記述に即して、合理的で体系的な説明を試みている。

ジャン・カルヴァン『キリスト教綱要 初版』

「綱要 institutio」とは何か

 本書の正式な標題は『キリスト教の宗教の教導、ほぼすべての敬虔の要諦、および救いの教義において知ることが必要なすべてのものを包含するもの:すべての敬虔を志す者にとって読むに最も値する著作であり、新たに出版されたもの』(Christianae religionis institutio, totam ferè pietatis summã, & quicquid est in doctrina salutis cognitu necessarium, complectens : omnibus pietatis studiosis lectu dignissimum opus, ac recens editum.)である。

ジャン・カルヴァン『キリスト教綱要 初版』(1536年)標題紙

 本書初版のタイトルが「Christianae religionis institutio」であるのに対して、第二版(1539年)以降のタイトルは「Institutio christianae religionis」と語順が変更されているが、文字通りの意味は同じである。本書は第三版(1543年)、第四版(1550年)、第五版(1559年)と版を重ねるにつれて構成に変更が加えられるとともに加筆修正が行われた。第五版はなんと初版の三倍の量があるという。
 渡辺信夫(1923-2020年)が注意を促したように、「〈綱要〉と訳されるラテン語institutioは〈教育〉〈教程〉を意味する」【*1】。その用例はクインティリアヌスの『弁論家の教育』(Quintilianus, Institutio Oratoria, 95)のタイトルなどに見られる。したがって、本書は「教育」の観点から書かれているということをあらかじめ念頭に置いておく必要がある。
 だが、本書は誰に対する「教育」なのか?献辞が捧げられたフランソワ王か?それとも当時の人々か?——いや、それ以上に問題なのは、初版からおよそ500年後に読む我々は、本書によって「教育」されうるのだろうか?本書を読むことを通じて、キリスト教の教義に精通すること以上に、何か倫理的な、教育上の効果があるのだろうか?

初版のシンプルな章立て

この書物が扱う主な問題【*2】は、
一 律法について、そこには十戒の説明が含まれる【*3】、
二 信仰について、そこでは信条(それは使徒信条のことだが)の解説がなされる【*4】、
三 祈りについて、そのために主の祈りの講解がなされる【*5】、
四 サクラメントについて、すなわちバプテスマと主の晩餐〔=聖餐〕について、
五 これまで世の人々によってサクラメントと考えられてきた残りの五つのサクラメントはサクラメントではないことを証明し、ならば何であるのかを明らかにすること、
六 キリスト者の自由、教会の権能、国政について、
である。

(Calvin1536: 2,深井智朗訳8頁)

ここでは「この書物において論じられる議論の要点 capita argumentorumn, quae in hoc libro tractantur」(つまり第一章から第六章までの目次)が示されている。ここで律法から始めて、信仰、祈り、サクラメント、そしてキリスト者の自由や教会の権能へと進む順序には、カルヴァンの意図が垣間見える。つまりこの章立ての順番にはカルヴァンなりの論理があり、キリスト者の自由や教会の権能から始めて、サクラメント、祈り、信仰、そして最後に律法に至るような順序で論を進めることはできなかったはずである。
 カルヴァン自身がその第二版(1539年)の中で本書初版を「小著 in minutis operibus」と呼んでいるように、本書初版の特徴としてその章立てがシンプルである点が挙げられる。後に『キリスト教綱要 第五版』(Institutio christianae religionis, 1559)では4編80章にまで構成が膨らみ、章立てがより細かく分かれている。

ジャン・カルヴァン『キリスト教綱要 第五版』(1559年)

意訳された深井訳の目次

 なお深井訳では本書の目次が次のように示されている。

〔献辞〕 9
第一章 律法について、十戒の説明を含む。……47
第二章 信仰について、使徒信条の解説を含む。……109
第三章 祈りについて、主の祈りの講解を含む。……167
第四章 サクラメントについて。……211
第五章 これまで世の人々によってサクラメントと考えられてきた残りの五つのサクラメントはサクラメントではないことを証明し、ならば何であるかを明らかにする。……299
第六章 キリスト者の自由、教会の権能、国政について。……425
訳者解題 539
訳者あとがき 561

(ジャン・カルヴァン『キリスト教綱要 初版』深井智朗訳、講談社、4頁)

第一章のタイトルが「十戒の説明を含む(quod Decalogi explicationem continet)」と訳されているのは概ね問題ない(ただし関係詞「quod」が訳出されていないが、なくても日本語としては問題ない)。だが、第二章と第三章の章タイトルには「〜を含む」に該当する動詞「contineō」が原文には存在しないので、深井訳では原文の目次を意訳して若干改変していることになる。第二章タイトルは「信仰について、そこではまた信条(我々はこれを使徒信条と呼ぶ)が説明される。(De fide, ubi et Symbolum (quod Apostolicum uocant) explitcatur.)」が直訳であるが、深井訳ではこれが「信仰について、使徒信条の解説〈を含む〉。」と意訳されている。第三章タイトルも同様の仕方で改変されている。すなわち、「祈りについて、そこではまた主の祈りが解説される。(De oratione, ubi et Oratio dominica ennaratur.)」が直訳であるが、深井訳ではこれが「祈りについて、主の祈りの講解〈を含む〉。」と意訳されている。ただし直訳ではなく意訳しているからといって、内容が大きく変わっているわけではない。

第一章 律法について、十戒の説明を含む。

〈神〉の認識と〈我々〉の認識

聖なる教理の全体は、神を知ること、そして自分自身を知ることの二つの部分で構成されている【*6】。

(Calvin1536: 42,深井訳47頁)

カルヴァンによれば、「神の認識」と「我々自身の認識」という「二つの部分」がキリスト教の「教理(ドクトリン)」を成している。ここには〈神〉と〈我々〉という二つの極が前提とされている。だが、私からすれば、この世界は〈神〉と〈我々〉以外のものからも構成されているように見える。それは動物であったり、植物であったり、これらは総じて自然と呼ばれるものである。〈我々〉人間自身は〈神〉ではない。したがって、「神の認識」といっても、それはあくまで〈我々が理解する限りでの「神の認識」〉であり、〈我々が理解する限りでの「我々自身の認識」〉ではなかろうか。カルヴァンは「神の認識」に関して次のように述べている。

私たちが確かな信仰をもって神について知るべきこと【*7】は、次のとおりだ【*8】。第一に、神は永遠の知恵、正義、善、憐れみ、真理、力、生命であり、神の他にはいかなる知恵、正義、善、憐れみ、真理、力、生命もありえないということである。

(Calvin1536: 42,深井訳47頁)

ここで〈神〉の特徴として「永遠の知恵、正義、善、憐れみ、真理、力、生命」が挙げられている。これらの観念についてはこれまでに多くの哲学者が思索を巡らしてきたし、その思索は現在も続いている。だとすれば、〈神〉とは、〈我々〉人間がこれまで不断に追求してきた理念そのものであると言えるだろう。

(つづく)

*1:「キリスト教綱要」『改訂新版 世界大百科事典』平凡社(コトバンク)。
*2: 深井訳では「この書物が扱う主な問題」と訳されているが、「capita」は名詞「caput(点、章)」の中性複数主格であり、「argūmentōrum」は名詞「argūmentum(議論)」の中性複数属格であり、「tractantur」は動詞「tractō(取り扱う、議論する)」の直接法現在/三人称複数/受動態であるから、文字通りには、「この書物において論じられる議論の要点」が直訳である。
*3: 深井訳では「そこには十戒の説明が含まれる」と受動態で訳されているが、関係詞「quod」は中性単数主格であり、「explicātiōnem」は名詞「explicātiō(説明)」の女性単数対格であり、「continet」は動詞「contineō(〜を含む)」の直説法現在/三人称単数/能動態であるから、文字通りには「それは十戒の説明を含む」が直訳である。
*4: 深井訳では「そこでは信条(それは使徒信条のことだが)の解説がなされる」と訳されているが、「Symbolum(信条)」は中性単数主格であり、「explicatur」は動詞「explicō(説明する)」の直説法現在/三人称単数/受動態であり、カッコ内の関係代名詞「quod」は中性単数対格(その先行詞は「Symbolum」である)であり、「Apostolicum」は名詞「Apostolicus(使徒)」の男性単数対格であり、「uocant」は動詞「vocō(呼ぶ)」の直説法現在/三人称複数/能動態であるから、文字通りには「そこではまた信条(我々はこれを使徒信条と呼ぶ)が説明される」が直訳である。
*5: 深井訳では「ubi」が「そのために」と「理由」の形式で訳されているが、「ubi」は場所を示す語であるから、「そこではまた主の祈りが解説される(ubi et Oratio dominica ennaratur)」が直訳である。
*6: 深井訳では「〜で構成されている」と受動態で訳されているが、「cōnstat」は動詞「cōnstō(〜から成る)」の直説法現在/三人称単数/能動態であり、これは受動態をとらないので、文字通りには「聖なる教理の総体は、ほぼこれら二つの部分から成る。すなわち、神の認識と我々自身の認識である。」が直訳である。
*7: 深井訳では「神について知るべきこと」と訳されているが、文字通りには、「確立されるべきこと(cōnstitūtum)」である。「cōnstitūtum」は動詞「cōnstituō(構成する、確立する)」の完了受動分詞「cōnstitūtus」の男性単数対格である。
*8: 深井訳ではこの直前の「Haec uero de Deo nobis in praesentia discĕda sunt.(ところで、現在において私たちが神について学ぶべきことはこれらである。)」というセンテンスが、文字通りには独立して翻訳されておらず、次のセンテンスと一緒くたにされている。なお「discĕda」は、動詞「discō(学ぶ)」の未来受動分詞「discendus(学ばれるべきこと)」の中性複数主格「discenda」と理解する。

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