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〔抄訳〕デステュット・ド・トラシー『イデオロジー(観念学)要論草案』(パリ,1801年)「序文」

はじめに

 マルクスはかつて「私はマルクス主義者ではない」と述べたとされる.したがって,マルクスの思想とマルクス主義とは峻別されなければならないし,マルクスの「イデオロギー」とマルクス主義的な「イデオロギー」とは峻別されなければならないであろう.ドイツ語の「イデオロギー」は転義であるが,〈原義〉としての「イデオロジー」と,〈転義〉としての「イデオロギー」もまた峻別されなければならない.そのように考えているうちに,〈原義〉としての「イデオロジー」から〈転義〉としての「イデオロギー」に至るまでの概念史を整理したくなった.望月は〈原義〉としての「イデオロジー」について,次のように説明している.

《idéologie》は,デステュット・ド・トラシによる新造語である.トラシは,これを宣言することにより,新しい学知の理念を明確にした.《idéologie》は,換言すれば《science des idées》,すなわち「観念の科学」であるが,しかしそれは単に理論的に学知の革新を目指したものではなく,それを通して社会変革を志向する,実践的であるという,その意味において優れて思想的なものであった.

(望月太郎 2001「感覚主義からイデオロジーへ—イデオローグのコンディヤック批判—」1頁)

このような〈原義〉としての「イデオロジー」,すなわち「観念の学」を明らかにするために,以下ではデステュット・ド・トラシー(Antoine Destutt de Tracy, 1754-1836)の『イデオロジー(観念学)要論』(Éléments d’idéologie, Paris, 1801-1815)の翻訳を試みる.本書について阿部弘は次のように説明している.

 「フランス革命」の最中に,とは言うものの「テルミドールの反動」の後ではあるが,前述の「イデオローグ」学派によって,「イデオロジー」という概念が打ちたてられた.この概念は,現在わたしたちが日常普段に用いている「イデオロギー」という言葉の語源である.しかし,元来はこの概念は人間が,「神」などの絶対的価値に囚われることなく,自由に,「人間」を基本にしてあれこれ宇宙を組み立てようとする考え方であり,哲学であった.
 この哲学の提起はデステュット・ド・トラシーが1796年に行ない,1801年には『イデオロジー論』として刊行された.このイデオロジーに関する著作は1801年に第1巻,1803年に第2巻,1805年に第3巻が刊行された.タイトルは次のようであった:
 第1巻:厳密な意味でのイデオロジー
 第2巻:文法学
 第3巻:論理学
 第1巻から第3巻までが,「イデオロジー論」第一部として,人間の知覚手段の形成に関する段階的発展に関する研究であった.これに対して,第二部:知覚手段を人間の意志とその結果へ応用する問題として,経済学及び道徳(未完)が1815年に発表された.これはそもそも未完であったこともあるが,この段階で,「イデオロジー論」の体系はストップしてしまった.

(阿部弘 1988「哲学と経済学—経済学の形成過程—」9〜10頁)

 デステュット・ド・トラシー『イデオロジー要論』の原文はフランス語である.邦訳はまだ無い.訳者(私)はフランス語が得意ではない.私が修士までに研究等で用いた言語は主にドイツ語であって,その他の言語は原典購読の授業で読んだか,独学したかのどちらかに過ぎないからである.それゆえ,本来であれば何でも良いのでフランス語の著作に一度沈潜してから翻訳に取り組むべきかもしれない.だが,今の私にそのような余裕はない.

 前回のバーボンの翻訳と同様,今回の翻訳作業でもGoogle翻訳とDeepL翻訳を利用した.しかしながら,英文和訳と比べてフランス語の機械翻訳はいまだに訳文がこなれておらず,実用に堪えない.結局辞書を片手に最初から訳しなおすハメになった.誤訳を見つけたらぜひご指摘願いたい.

文献

デステュット・ド・トラシー『イデオロジー(観念学)要論草案』(1801年)

 以下の訳出にあたってはTracy, Destutt-, 1801, Projet d'éléments d’idéologie, Paris.を底本とした.

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デステュット・ド・トラシー『イデオロジー(観念学)要論草案』(1801年)標題紙

序文

 若者たちよ,私は君たちに語りかけている.私はもっぱら君たちに向けて書いている.私は,すでに多くの事柄を知り,よく知っている人たちに教授しようなどと主張するつもりはない.私はそれを提供する代わりに,彼らに教養を期待する.なまじっかな知識を持つ者たち,つまり極めて多くの知識を持っている者たち,彼らは確実だと思い込んでいるが誤った結果を引き出し,多年にわたる慣習に縛られている者たちに関しては,私は彼らに自分の考えを提示することからはいっそうかけ離れている.なぜなら,最も偉大な近代哲学者の一人が述べているように*1,『人々がひとたび誤った意見を受け入れ,その意見を彼らの精神に真面目に記憶してしまうや否や,すでに文字の込み入った紙に読みやすく書くのと同様,彼らに分かり易く話すことはまったくもって不可能』だからである.ホッブズのこの観察はまさしくその通りである.我々は共にその理由へとすぐさま到達するであろうが,それまでの間,君たちはそのことをかなり確実なことだと思っていてよいであろう.君たちのわずかな個人的な体験が,いかにその経験が広範であろうとも,その証明をまだ示すものではなかったとするならば,私は大変驚くであろう.いずれにせよ,さしあたって君たちの仲間の一人がほかの全員には明らかに不条理に見えるような何らかの考えに頑なに執着しているときに彼を細心の注意を払って観察すると,君たちは彼が,君たちにとってはきわめて明確だと思われる理由を理解することができないような精神状態にあることがわかるであろう.同じ考えが,彼の頭の中では君たちとは全く異なる順序で事前に配置されているのである.その考えが訂正される前に,その訂正を邪魔するに違いないような別の考えが無限にあることに起因するというのである.他の機会に君たちは彼に仕返してやることができるかもしれない.ああ,我が友よ,同じ方法,同じ原因によって,人々は誤った哲学体系や,子どもたちの遊びで誤った構成に執着するものである.

 私はこの文章の中で,君たちが考え・話し・推論する際に君たちにおいて起こっているそのすべてを,君たちに教授しようとするのではない.指摘しておきたいのは,それらから君たちを守るためなのである.いくつかの考えを持ち,それらを表現し,組み合わせることは三つの異なる事柄である.だが,これらは密接な連関の内にある.ごくわずかなフレーズのうちに,これらの三つの〔交互〕作用が見いだされる.これらの作用はよく溶け合い,非常に素早く実行され,一日,一時間,一瞬のうちに,何度も繰り返し更新されているので,最初はそれが全く我々の中でどうやって起こっているのかを解明するのはひどく困難であるように思われる.しかし,君たちは,この仕組みが思ったほどには複雑でないことがすぐにわかるであろう.そのことが明白にわかるためには,それをつぶさに検討するだけで十分である.すでに君たちは,自ら真の考えを作り・それらを的確に表現し・適切に組み合わせることを確信するためには,その仕組みを知る必要があると感じている.これら三つの条件は,それを抜きにしてはでたらめに推論するより他に仕方のないようなものである.かくして共に我々の知能を研究しよう.私は君たちの案内人にすぎない.それは,私がすでに君たちよりも考えたから——なぜなら私にとっては何の役にも立たなかったといえるから——ではなく,私は人々がどのように考えているのかを大変よく観察したのであって,君たちがそれを理解できるようにすることこそが重要だからである.我々がこれから話そうとしている科学には様々な名称が与えられている.しかしながら,我々はもう少し進んで,君たちが主題についての明確な観念を得るならば,君たちはそれにどんな名称が与えられるべきなのかがかなりはっきりとわかるだろう.それまでの間,私が君たちに示唆するそれらの名称はすべて,君たちに何も教えないか,あるいはここで問題点とはならない事柄を君たちに指摘することによって,ひょっとすると君たちを迷わせるであろう.それゆえ研究し,その上で我々は自らの学んだことを何と呼ぶべきかを見いだそう*2.

 多くの人々が,君たちの年齢では,君たちに従事してもらいたい研究はできないと信じている.これは誤りである.それを証明するためには,私が君たちに自らの個人的な経験を引き合いに出して,君たちの誰よりも幼く知性に目を見張るものがない子どもたちに私が話そうとしているいくつかの考えをすべてよく示したことを,そして子どもたちが喜びをもってそれらの考えを容易に把握したことを話せば事足りる.だが,私はもう少しだけ君たちに説明しなければならない.その説明は後で無益にはならないであろう.

 第一に,我々の知的な力は,我々の肉体的な力と同様,我々の器官の発達に伴って増大し・成長することに疑問の余地はない.それゆえ,君たちは数年後により重い荷物を持ち運び支えることができるようになるのと同じく,今日よりも確実に強く,より長く注目されるようになるだろう.

原注

*1: ホッブズ『人間本性論』ドルバック男爵訳.
*2: この科学は,もっぱらその主題だけに着目する場合にはイデオロジー(観念学) Idéologieと呼ぶことができ,もっぱらその方法だけを考慮する場合には一般文法学 grammaire généraleと呼ぶことができ,もっぱらその目的だけを考察する場合には論理学 logiqueと呼ぶことができる.この科学に付与された名前が何であれ,必然的にそれはこれらの三部門を〔すべて〕包含している.なぜならば,その他二部門を取り上げるを抜きにして,その一部門だけを合理的に取り上げることはできないからである.筆者はイデオロジー(観念学) Idéologieを,〔種に対する〕類的な用語と考えている.なぜなら,諸観念の学には,諸観念の表現に関する学と、諸観念の組合わせに関する学が含まれているからである.

(つづく)

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