スピノザ『エチカ』の最初なのです。
実体は「itself何ものかが孕むもの」なのです。xvideosでおなじみit's comingなのです。実体同士は無関係に孕まれるのです。
属性は「実体の本質を構成していると知性が悟るもの」なのです。
concipere(conceive)
decipere(deceive)
percipere(perceive)
recipere(receive)
となっているのです。「decipereだます」と「recipere受け取る」がスピノザのテクストに隠されていた本体なのです。
神は「絶対的に無限の存在、すなわち無限の属性から成る一つの実体」なのです。cōnstituō(constitute)と違い、cōnstāns(consist)は部分とは異質なものになるのです。各属性は「その実体の永遠で無限の本質性を表す」のです。各属性は無限で、属性は無限にあるから、神は高次の無限なのです。阿呆がどちらも「構成する」と訳したので無用な混乱があるのです。
各属性は「神の実体の永遠で無限の本質性を表す」のです。知性が目にするのは表れであり、それを見て「属性が神の実体の、永遠で無限の本質を構成している」ことを悟るのです。神は「無限の属性から成る一つの実体」なのです。ここで「構成する」と「成る」の違いが効いてくるのです。たとえば自然数は無限にありますが、自然数を構成するには有限の公理でいいのです。
実体:何ものかが孕むもの
神:無限の属性から成る一つの実体
知性:属性が実体の本質を構成していると悟る
代入すると
のです。水分子は水素原子2つと酸素原子1つから成りますが、水分子の本質はこれら原子とその配置だということなのです。あるいは「自然数は、自然数全体から成る集合の要素を構成する」みたいなものなのです。水分子や集合には原子や数とは異次元の性質があるのです。属性は「永遠で無限の本質性を表す」のでした。こちらも数学と同様、有限で無限を「表す」ことができるのです。たとえば「2」で「本が2冊」「解が2つ」…を表わすことができるのです。
永遠は「存在そのもの」であり、「孕まれるもの」なのです。しかしself-causedでなくてはならず、それ以外に影響があってはいけないのです。定義の「永遠」を「存在的」と書き換えて
神:無限の属性から成る一つの実体
属性:神の実体の存在的で無限の本質性を表す
属性が表す神の実体の本質性に「存在すること」があるので、「神がself-causedなら、存在する」ことが示されたのです。
知性は何ものかにだまされ、「神は無限の属性から成り、本質を属性が構成しており、何ものかが孕む」と悟るのです。知性は何ものかを知らないので、もし神が何ものかの影響下にあれば、知性の知らない影響があるのです。しかし神は定義上唯一なので矛盾するのです。したがって何ものかは神に影響を与えないのです。また神のありようを知るだけなので、知性は神に影響を与えないのです。つまり知性が悟る→受け取ることで、神はself-causedになったのです。ゆえに神は存在するのです。(証明終)
「神の定義」は言葉の問題だから、神の御心であり、人間が好きにしていいのです。銀英伝の設定みたいなもので、マジになって論じてもダサいだけなのです。しかし「神の存在」は実体なので違うのです。スピノザのやったことは「何ものか=無意識が神を生みました。まる」で終わりなのですが、頭を使って解くことで神を悟ることができるのです。こうやって解説する犬っちのほうが異端なのです。無意識=神とはしないところが面白いのです。スピノザの神は宇宙の因果を含む自然なので、そうすると都合が悪いのは事実なのですが。
いくら論理的には有限から無限を成すことができるといっても、成した無限はしょせんは幻なのです。「無限」の感じがあるだけなのです。しかし人間はこの感じを本質だと誤解するのです。
英訳者はそのへんを理解して、二つ目のessentiamをrealityと訳したようなのです。
無意識が神を孕み、属性がリアリティを表し、知性が神を悟るのです。属性はつまり、思考の介在しない「ありのまま」のことなのです。セロトニンなのです。
「本質」が「本質を表す」のです。つまり本質はありのまま表れるのです。存在は本質なので、存在はありのまま表れるのです。阿呆ほど存在を見ずに自分の頭の悪い考えを優先するので、DIOの手下に負けるのです。
リアリティでない、普通の感覚や感情の類はこちらなのです。ドーパミンなのです。
「自由」でいるとは、お天道様にのみしたがうことなのです。ドーパミンは不自由なのです。