「100分de名著」ローティ篇、2024年2月26日22時25分〜初回放送の第4回(最終回)「共感によって「われわれ」を拡張せよ!」の旧Twitterでの実況・解説を編集・再録するまとめ記事です。
どんどん長くなってますが、今回が確実にいちばん長くなっておりますので、よろしければお時間あるときにゆっくりお読みください。
いよいよ最終回、『偶然性・アイロニー・連帯』の最後のテーマ「連帯」を中心的にローティがどんな課題意識と、そしてどこに希望を見出そうとしていたのかを見ていきます。
では実況・解説から。
今回、第三部のフィクション論を見ていくということで、数日前に「予告ポスト」もしていました。こちらの内容もある程度「実況・解説」に組み込んだので、まとめとしては再掲しませんが、一応以下。
そして第3回に続いて事前アラート。
第2回の「バザールとクラブ(公と私)」の比喩に乗っかれば、今回見ていくナボコフ『ロリータ』は一種の「クラブ」においてこそより深く愉しまれうるもので、そこで描かれる「正しくなさ」までも含め、今回味わっていく、ということになります。
それゆえ、公共放送のような「バザール」の場においては、こうしたアラート付で言及されねばならないわけですね。しかし、このことは『ロリータ』をはじめとしたフィクション作品(やエスノグラフィ、ルポルタージュetc.)が公共的意義をもたないことにはならない、否、むしろ重要な意義をもつのだ、というのが今回の話です。
最終回です。毎回(独りでは正視に堪えないので)セミパブリック・ビューイングを催し、周囲でいっしょに観てもらってましたが、ここの「グレーテルのかまど」のEDから緊張が高まるんですよね…。
「お顔がよすぎて」はネット上で見かける慣用表現をつい無反省に使ってしまっており、この表現が含意するルッキズムを思うと、少なくとも公共的な言論の場と思っている場所では使うべきではなかったと(まさに「文化政治」の観点から)反省しておりますが、自省を込めて、そのまま引用しました。
そういえば、今回は視覚面について実況してませんでしたが、初回のセットアップからじょじょにカジュアルダウンしていく方針(通称:岸政彦メソッド)で、白のバスクシャツとジーパンに。衣裳情報などはInstagram( https://www.instagram.com/heechul_ju/ )に挙げてます。
最終回にして、ついに衣装かぶりがなかった(!)のもよかったです。
これは放送終わったからこその裏話ですが、今回「男性哲学者が、男性哲学者を紹介する」構図でもあり、番組全体として、とくにジェンダーの公正さについては意識しながら制作スタッフとも熟議しつつ進めました。
また第4回でやや繊細に触れたように、ローティは「アイデンティティ・ポリティクス批判」で知られた人物でありますが、私自身はそれについて必ずしも通俗的な理解をとるべきではなく、ローティのIP批判から救うべき重要な論点があることを、第4回の番組テキストでは最小限に、そして『〈公正〉を乗りこなす』では全編にわたって論じてきたので、アニメーション等も含む、番組全体の印象をどこまで、こうしたいわばアイデンティティ多様性という所与の事実を踏まえたものであるというように持っていけるかは、重要なチャレンジでした(アニメーション表現なども含め、こうした観点から見直してもらうと、いくつか工夫の跡が見えるかもしれません)。
こうした挑戦がつねに改訂に開かれうる不十分なものであることは言うまでもありませんが、ひとまずこのジェンダーの公正の観点において、「男性哲学者のテキストの朗読だから、男性」とせず、戸田恵子さんをキャスティングされた製作陣の差配は見事だったと思います。
このフレーズはほんとにギョッとしてしまう人はいるでしょうし、私もそうでした。ローティは、先に触れたアイデンティティ・ポリティクス批判も含め、パッと聞くと少数者・当事者に酷薄で、いかにも多数者の開き直りのように響くことを言ったりします。
しかし、それをもって彼の言説全体を切って捨てたり、反発して終わらせるにはもったいないくらい、そこには透徹した洞察と「大人」の見識があります。放送では、それらを垣間見せることくらいまでしかできず、歯がゆいですが、できればぜひテキスト、そして拙著にも手を伸ばしていただければと願っています。
また、サブテキストとして挙げた二冊についても、以下の通り紹介しておきます。
こうした「生活史」への注目についての仮説や関心もあり、私自身「聞き手」として、岸政彦さんが監修された大規模生活史編纂のとりくみに参加したことがあります。『大阪の生活史』(筑摩書房)という、すごい分厚い一冊ですが、これはもう一年くらいじっくりと楽しめる本で、分量と濃度を考えたらこのお値段でもお得だと断言できるので、よろしければぜひ(もちろん、図書館等でも、ぜひ)。
ローティが、文化人類学者、社会学者といった「エスノグラファー」に希望を託しているのは、以下に訳出した論文です。これに長い解説を付して、「バザールとクラブ(公と私)」の葛藤について、描き出していますので、こちらもぜひサブテキストとしてご参照ください。
「感情教育(sentimental education)」、ちょっと不思議な響きで「それって哲学者が言うことなの?」と引っ掛かりをおぼえるようなフレーズかもしれませんね。
第4回タイトルでパラフレーズされていたように「〈われわれ〉を拡張すること」というのが、ローティ流の感情教育です。さて、それはどういうメカニズムで、どうすれば機能するものなのか、という話をしていくわけですが、そこで手がかりとされるのがフィクション作品です。
『アンクル・トムの小屋』については上記にも書きましたように、すでに役割を終えた作品でもあり、とくに参照されずともと思います。
どちらかというと、おそらく視聴者の方に想像しづらいのは、実況・解説にも書いたように「北米において、いかに南北戦争が大きなものだったか」の方かもしれません。南北戦争における戦死者数は「約60万人」であり、これは独立戦争(約2.5万人)、第二次大戦(約40万人)、ベトナム戦争(約5万人)をはるかに凌ぎます。それだけ多くの傷跡とトラウマを、アメリカ合衆国という大国に刻み込んだのが、この南北戦争です。
南北戦争については、さまざまなサブテキストがありますが、ひとまず以下が推奨です。
また、岩波新書の「アメリカ合衆国史」シリーズも推奨です。
これらを踏まえて、「南北戦争に対する、甚大なトラウマ(心的外傷)」から誕生した思想潮流として、アメリカ独自の哲学思想「プラグマティズム(Pragmatism)」を描きだしたのが、名著『メタフィジカル・クラブ』(みすず書房)です。
ここは第4回でも屈指の伊集院さんのコメントでしたね。
後段の話については、紹介している『現代思想』特集号や以下などをご参照ください。
ということでナボコフ『ロリータ』です。
ナボコフを選んだ理由については、前回第3回のまとめ末尾でも触れましたので、未読の方はぜひ。
なお今回の放送期間中、責任の一端としてSNSでは「ローティ」等の関連キーワードで検索をして、適宜反応したりしなかったりしております。
前回第3回でとりあげたフィクション作品である伊藤計劃『虐殺器官』については、ファンダムの方たちのさまざまな反響など、恐々としつつもありがたく拝読していたのですが、今回「ロリータ」についてはこのワードを検索するだけで、いかにこの作品に由来するこの語が原義を離れて拡散し、もはやその情報の洪水の中では原典に関しての言及を探すことさえ不可能であることをまざまざと感じますね…。
しかし、世界文学史上に燦然と輝く傑作にして怪作、世紀の奇書でもありますので、ぜひとも…です。
『ロリータ』のアニメ、感慨深かったですね。
ハンバートのビジュアルや、ドロレス(ロリータ)の服装など、キューブリック版の映画なども念頭に、それらにひっぱられず、あらためて原作に準拠して考えられたものになっていたのではないかと思います。
ちなみに「ロリータ・ファッション」(および、その派生で「ゴシック・ロリータ・ファッション(ゴスロリ)」)という言葉からイメージされるファッションは、少なくとも作中のドロレスの格好とはまったくかけ離れたものであることは、念のため付記しておきます。
「カスビームの床屋」の戸田恵子さんの朗読、すごかったですね!
床屋のミニチュアセットや小道具まで準備していただき、BGM等音響もあいまって、とても気合の入った朗読シーンを作り出してくださいました。
私自身、ナボコフについては一読者でしかないので、ローティの『ロリータ』解釈について、その正当性(正統性)を争う準備はないのですが、ひとまず本職のナボコフ研究者からの好意的な反応として、下記サブテキストを挙げることができます。
自分が専門でない分野で次のように述べることが権威主義的であることは承知の上ですが、とくに若島正先生による言及は、やはり重みがあるのではないでしょうか。
番組第1回から第4回まで、この2024年2月の一ヶ月間にも、このニュアンスはますます高まっているようで、ある意味で「タイムリー」なシリーズになってしまいました。
こちらについても拙著で詳細に書いたので、ここでは追記はありません。
しつこいですが、ここでも宣伝URLを貼っておきます。
ここも。
違和感や反発を持たれた方にこそ、ぜひテキスト→『〈公正〉を乗りこなす』と読み進めてほしいのですが、なかなか届かないかもしれませんね…。
私自身、二十歳前後ではじめてローティを読み、この点に、まさに自身のアイデンティティゆえに反感を覚えましたし、そこから何としてもこの哲学者を徹底的に批判しようと思ったのがローティ研究の入り口だったわけで、そこから二十年近く、その論点に向き合っています。
そして、その結晶でもあるような本が、以下です。
こちらの場面、もしかすると放送された全4回ではじめて、伊集院さんのコメント(「ロシアの人の言い分にも耳を傾けた方が…」)について、はっりと「いいえ」を返した箇所かもしれません。
しかし、ここは大切な「いいえ」でしたし、そして視聴者の感じるミスリードを代表して、その「いいえ」を引き出してくれた伊集院さんには、やはり感謝です。
なお第3回のテキストでも、いくつか重要な歴史的事件について記載することができましたし、今回、少なくとも指南役として、何かについて発言できないとか、忖度を求められるような場面はありませんでした。この点は、明記しておきたいと思います。
(重ねて、時期を問わず再放送がありえるもので、時事的トピックを扱える番組ではない、ということは念頭に。余談ですが、この観点から「服装はあまり季節感がない方がいいかも」というお話はありました)
…ということで、呼ばれざるカーテンコールとして、こちらのnoteでも、もう一度御礼を申し上げます。
正直言って、ローティが影の主人公である単著が一冊あるくらいで、まだまだ駆け出しの初期キャリア研究者である私に、NHK「100分de名著」のような大役が来るとは思ってもおらず、またリチャード・ローティという哲学者その人も、90-00年代にポストモダンブームもあってやや脚光を浴びたものの、その後長らく一般読者はもちろん、プラグマティズム・言語哲学の研究者にもそこまで顧みられてきたとはいえません。
そんななか、ある意味では「トランプ現象の予言、ふたたび」という時事性ひとつを契機として、2024年2月回の枠を担当させてもらうことになり、身に余る重責を感じてきましたが、少なくとも、番組「指南役」およびテキストの筆者として、感謝と満足をもって最後までたどりつくことができました。
それはひとえにご覧いただいた(テキストご購入いただいた)皆さまのおかげですので、最後にあらためて感謝を申し上げる次第です。
ありがとうございました。
もしかしたら放送後記的なことを書くかもしれませんが、このあときっと番組ページで公開されるであろう「プロデューサーAのこぼれ話。」を読み届けてから、あらためて考えるかもしれません。
(※2024年2月29日追記:本日時点で「こぼれ話」ならぬ「今回の番組の注目ポイント」が公開されてますね。企画成立の背景などをプロデューサーAさんが語られています。番組ファンの方には必見かと。)
では、ここまで長いまとめ記事も読み通してください、ありがとうございました。
そして。
最後に恒例のお願いですが、もし番組だけご覧になって関心もたれた方には、ぜひともテキスト(600円!NHK脅威のメカニズム!)を、さらに関心を深められたい方には、今週発売の拙著『人類の会話のための哲学』(よはく舎)を、ぜひお求めくださいませ。
どうぞよろしくお願いいたします。