100分de名著 ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』実況解説まとめ(第3回)
「100分de名著」ローティ篇、2024年2月19日22時25分〜初回放送の第3回「言語は虐殺さえ引き起こす」の旧Twitterでの実況・解説を編集・再録するまとめ記事です。
今回は『偶然性・アイロニー・連帯』の最後「連帯」に向かうための序章となる回でした。
同書の第三部は「残酷さと連帯」と題打たれていますが、その「残酷さ」に目を向けていきます。
では実況・解説から。
放送前の告知とアラートでした。
今回、後で出てくるように「ドイツ人」へのおもに戦間期(WWⅠ-WWⅡ)に用いられた蔑称や、「アフリカ系」への蔑称、そして1994年のルワンダでの虐殺、旧ユーゴスラビアのボスニア紛争におけるボシュニャク人虐殺などに触れていきます。
日本の公共放送で、日本語で放送されるとはいえ、こうした事例に心理的安全性を脅かされる方がいることは当然想像されるべきであり、番組スタッフも事前アラートをどうするかは迷われたようですが、ひとまず私が毎回実況していることもあり、ツイートで事前対応しました。
事前告知の際、じつはいちばん引きがあったかもしれないのが、伊藤計劃『虐殺器官』も紹介しますよ、という趣旨の投稿でした。伊藤計劃ファンダムでもたくさん拡散していただいたようで、伝聞で「100分de名著『虐殺器官』!?」という期待をもたれた方も少なくなかったようでした。
宣伝というものの常ではありますが、(私の投稿ではあくまで事実に即した内容しか書いていないものの…)期待を煽るようなことをして、実際に失望されたり、お叱りを受けないかというのはちょっと心配でした。
いざ番組を観ると、きっちり原著の書影も映り、この該当シーンをそれなりの尺で戸田恵子さん朗読が入ってましたね。これにはおそらく原作ファンにもお喜びいただけたんではないかなぁと少し安心するとともに、私自身も伊藤計劃の読者のひとりとしてうれしかったです。
傑作S Fですので、未読の方はぜひ。
私自身、『虐殺器官』は刊行からそう遠くない時期に読んでおり、言語哲学の研究者としても、引き込まれたのを覚えています。
他方、やはり同じ(厳密にはジョン・ポールは「言語学者」ですが)言語を扱う研究者としては、「虐殺の文法」が一種のマクガフィン的なもので終わっているのは残念で、それを生理的な「器官(organ)」であるように示唆するのは、ちょっと呑み込みづらいと思っていたのです。
そういう「モヤモヤ」を解消してくれたのが、今回紹介したリン・ティレルの「虐殺の言語ゲーム」研究でした。(ちなみにティレルさんは『虐殺器官』のことはご存じないようでした…)
なお投稿にあるように「これネタバレじゃん」というツッコミには謝罪するしかないのですが、上記の通り、すでに古典的名作ということでひとつ…。
また、今回紹介する「虐殺の言語ゲーム」論の導入に『虐殺器官』を使おう、というのは昔から持っていたアイデアで、2022年刊行の『すごい哲学』でもやっています。
この本での紹介は、コンパクトながらうまく書けたと思っています。ほかにも実にたくさんの「世界最先端の哲学研究」が紹介された面白い一冊ですので、よろしければぜひ。
(タイトル煽りがすごいですが、実のところその名に恥じぬ硬派な内容でもあります。ただ「世界」というには英語圏に偏ってしまった、というのは編者陣総意での反省ですが…)
映像面の裏話。
さらに裏話をすると、1回と2回の収録日はどんな感じでメイクしていただくのかわかっておらず、朝それなりに入念に(つまりシャワー入ったり、ドライヤーしたりして)臨んだのですが、ヘアメイクさんがけっこうきっちりセットしてくれて、自分史上でももっとも整った髪型になっていたので、この収録日は「おまかせでいいんじゃん」となって、いつもどおり(つまり寝癖を水で濡らしてちょっと手櫛で大人しくしたくらい)で臨んだら、この日のメイクさんは「いい癖毛ですね!活かしましょう!」となって、けっこうふだんに近い暴れぶりになりました。
なお、「服が被る」ジンクスは、今回司会陣のおふたりに発生しておられましたね…。私はテーマも意識しながら暗い服にしました。衣装情報などはinstagram( https://www.instagram.com/heechul_ju)であげます。
今回の「100分de名著」ローティ篇、『偶然性・アイロニー・連帯』を軸にしつつ、他の著作も参照しながらローティ哲学の全体スケッチを描くのですが、その際に必須だと思ったフレーズのひとつが、「文化政治」(としての哲学)です。
『文化政治としての哲学』、私としては日本語で出ている論文集でも一、二を争うくらいおすすめですが、これも新刊は版元品切れっぽいですね…。岩波書店さん、ぜひ商機を逃さないご検討をいただけましたら…。
後半に「虐殺の言語ゲーム」論が控えますし、「文化政治」が私たちにとって身近なものであるということを紹介するための具体的議論、頭を悩ませましたが、「配偶者の呼称」にしました。
どうしてもマス層(つまりマジョリティ層)に伝わることを優先に、ステレオタイプなケース(男-女、(おそらく)結婚制度利用、モノアモリーetc)を描いています。
ちなみに私自身の場合にどうするかを考えてみると、暫定的ですが、いまなら個人名を挙げないケースでの三人称は「配偶者」を使うかなぁと思います(名前を知りうる間柄なら、家の内外関係なく「〇〇さん」で統一するでしょう)。
テキストにも書きましたが、その場合の含意としては「現行の婚姻制度の恩恵を受けており、その点には自覚的です」というあたりですかね。
VTR明けの第一声、ほんとにスタジオでV観ながら、流れるように移行するんですよね。伊集院さんもそうですが、ここでは阿部さんの第一声に大きくうなずかされました。「100分de名著」近年最大のヒットのひとつがSP版の「フェミニズム」特集だったと聞きますが、そうしたご知見もお持ちになりながら、ここでは(残念ながら…)「よくある違和感」を、とても等身大のエピソードとして開陳いただきました。
「モヤモヤを言語化する」は、たぶんですが、台本にもぜんぜんなかったフレーズのはずで、それでいてものすごくローティ的哲学プロジェクト(後述する、弟子ブランダム「推論主義」なども含む)のキーフレーズなので、ここはついうれしくなって即座に被せてしまいました。編集しづらかったかもしれず、すみません…。
用語的にいうと、言語コミュニケーションにおける「モヤモヤ」=「隠伏的・暗黙的(implicit)」なことを「明示化(explicit)」する、というプロジェクトですね。
ちなみにブランダムの主著は、文字通り*Making It Explicit*と言います。「鈍器 or 電話帳かな」と笑えるくらい分厚い本で、ジジェクだったかのジョークとして、「哲学界には、誰もが知っているが誰も最初から最後まで読んだことのない本が二冊ある。ロールズの『正義論』とブランダムの『明示化』だ」と言ったくらいです(もちろん内容的に並べられるくらい重要だ、とハーバーマスが発言したことを受けてのジョークです)。
翻訳出るといいのですが、なかなか厳しいと思うので、入門したい方はまず上記本のブランダムによる簡易版の邦訳『推論主義序説』(春秋社)があります。が、これは版元品切れ(&単体ではちょっと読みづらい本)なので、うってつけの入門書としては、白川晋太郎さんの『ブランダム 推論主義の哲学』(青土社)(あれ、これももしかしたら紙版は版元品切れかも…ただ電子版もあります)、そして、私たちが翻訳したブランダム『プラグマティズムはどこから来て、どこへ行くのか』(勁草書房)がおすすめです。下巻の第4章・第5章がローティ論です。
閑話休題ですが、こういうことがばーっと頭をよぎって、阿部さんのひと言に即反応してしまったしだいです。しかし、こうして「言いたかったこと」を引き出してくれるような、よい収録現場だったことを示す一場面かと思います。
これも。『バザールとクラブ』の「あとがきにかえて」でも論じてますが、一見すると今風の「ポリコレ」(私はこれはしかるべき面もあるため、*いわゆる、戯画化されて揶揄されるような*というニュアンスでの鉤括弧です)による「言葉狩り」に見えかねない「文化政治」について、少し聞いただけで「それとは違いますね」と判断できる伊集院さんに感服します。
いかにふだんから「ことばづかいの政治」に向き合っているかの証左でもあるだろうと思います。
このへんの話は、まさにブランダム「推論主義」として実装されているプラグマティズム言語哲学の道具立てです。ローティはこの推論主義を、「文化政治を推進する具体的な理論」として高く称賛しています。
本記事の最後でもまた宣伝する、近刊の拙著『人類の会話のための哲学』でもこの路線での実践(つまり、ローティがやりたかったことの、ブランダム推論主義を用いての実装)をやっています。
こちらは冒頭アラートから承前、です。
私もこのティレルの分析の紹介はいくつかのところでやっていますし、応用的関心をもつ言語哲学者のなかではそれなりによく知られた分析ですが、こうして実際の映像・音声を交えて紹介されると、やはりインパクトがありました。ラジオの音声は、私もはじめて聴きました。映像アーカイブも含めて、このあたりはさすがNHK…というところですね。
ティレルさんのご紹介。
この論文は、こちらの重要論集に収録されています。これ、ぜひとも日本語でも翻訳されるといいのですが…。
日本語での紹介については、投稿の通りです。
「言語ゲーム」、たしか番組内音声としては出ませんでしたが、フリップなどにはあったんじゃないでしょうか。「100分de名著」ウィトゲンシュタイン篇もまだ、ですが、いつの日か実現すればいいな…と思いますね。適任者も思い描けますし、きっと…。
「100分de名著」セラーズ篇…はさすがに厳しいでしょうかね…。私も含め、関係各位はがんばって知名度を上げていきましょう。
このあたりは、SNSを見ていてもやはり皆さん連想し、実際的なことだと感じられたのではないかと思います。もちろん、私を含め番組スタッフもそうした思いは同じかと。
テキストの方で触れていますが、これは日本に住む人々にとっても忘れてはいけない教訓であり、まったく対岸の火事ではない、ということも多くの方にとって痛感されたのではないかと思っています。
また、伊藤計劃『虐殺器官』の「虐殺の文法」のメカニズムとしても、これはかなり説得的ではないでしょうか。少なくとも私は、ティレルの論文を読んでまず興奮したのは、これ「虐殺の文法」の解明じゃん、ということでした。
このあたりは伊藤計劃ファンダムの方のご意見もぜひ聴きたいところです。
…ということでかなり迂回しましたが、しかし、ローティのモチベーションを具体的に知る上では、必要で重要な回り道であったと思っています。
このアムネスティ人権講義での講演がもとになった論文「人権、理性、感情」はローティの主張のなかでもやはり目を引くもので、私も初期に読んでその「人権」の基礎づけ主義(本質主義)批判には最初は驚かされました。
この論文は第4回にももう一度出てくるはずで、ではどうすればいいのか、それは「感情教育」なんだ…という話になっていきます。
ちなみに、この論文で批判される「人権基礎づけ主義」は、アラン・ゲワースのものです。ただ、ゲワース自身の論証がどうなっているのか、詳細には検討されず、切って捨てられているのですね。そのため、ゲワースの論文にも当たりながら、この基礎づけ主義批判の論証を再構成したのが、下記の本での第1章「「道徳的価値の探究―基礎づけなき時代の道徳教育はいかなる足場をもちうるか」です。
ご関心ある方はぜひ。
岸本智典編著『道徳教育の地図を描く―理論・制度・歴史から方法・実践まで』、教育評論社、二〇二二年.
これは付け足すことはありませんが、第3回はスタジオ収録の時点でもこの「(私を含む)いまの哲学者たちは何をやっているのか」という話をたびたびさせていただく流れがありました。
もちろん、いまの哲学者たちが皆ローティ的というわけではまったくないですし、明示的にローティ的な「文化政治」を実践していると自認している研究者はむしろ少数だとは思いますが、しかし、類似したモチベーションをもち、そして方法論を採用する哲学者は少なくないのです。
次回予告でした。
最後は「文学」に希望を託すというちゃぶ台返しというか、これもまた「アンチ哲学」(正確には「アンチ(近代/分析)哲学」)を提唱したローティの面目躍如という回になるかと思います。
『ロリータ』、手に入れやすい上にさまざまなガイドが詰まった若島正先生訳が新潮文庫から出ておりますので、来週までにぜひ。
なお、『ロリータ』については映画版やその後の文化への広範な影響があまりに有名で、名前は知っているけど読んだことはないし読みたくもない、という方は決して少なくないと思うのですよね…。
そういう入口からでも、読んでみるとこの本がじつのところ「小児性愛をメインテーマとし、それを擁護した」本などでは*まったく*ない、ということはわかるでしょうし、そして世界文学の金字塔のひとつである理由もわかるはずです。
そんなご感想noteを目にしたので、リンクを貼っておきます。
あまり予断は避けたいと思いますが、私自身はミステリ愛好家として、『ロリータ』はいわゆる「信頼できない語り手」ジャンルの叙述トリック的小説として(も)最高峰だと思いますし、また、ユイスマンス『彼方』『さかしま』の倒錯的耽美小説の系譜としても、あるいは夢野久作『ドグラマグラ』や京極夏彦『魍魎の匣』のような「彼岸に旅立ってしまった人物」譚としてもその極北にある小説だと思っています。
さて、毎回どんどん長くなってしまって、最後まで読んでくださる方はいるんだろうかと不安になりながら、ここで(私的には)いちばん大事な宣伝です…!
いよいよ今週、拙著『人類の会話のための哲学:ローティと21世紀のプラグマティズム』が刊行されます。
こちらはまさに放送中の「100分de名著」ローティ篇で示しているローティ理解を掘り下げ、その現代的な意義、哲学史的な意義、そして今後の可能性を論じた著作です。
どうぞよろしくお願いいたします。