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あの時わたしは、死んだように生きていた
生きていたのだろうか、死んでいたのだろうか
死んだように生きていた、といえばいいのだろうか
わたしは長い間、"食べる"という当たり前のことができなかった。
"摂食障害"
17、18の頃から約10年患った病だ。
事の発端はその年頃にありがちなダイエットだった。当時わたしは高校生。仲良くなった友人たちは、いわゆるちょっとギャル系の一軍女子。しかも、芸能人のような目立った容姿の子達ばかり。今のように"多様性"なんて価値観はなかったし、痩せててなんぼ、可愛くてなんぼな時代。誰もが雑誌のモデルに憧れて、一度や二度くらいダイエットをした経験があると思う。
わたしも最初は軽い気持ちで始めたんだ。だけど、体重が減るたびに、快感を覚えるようになって、次第にその快感に取り憑かれていった。
痩せることに依存して、1キロでも体重が増えれば心臓がバクバクして、こわくて、パニックになった。食べ物を身体に入れたら太る。米粒の一粒と睨めっこをした。太るのが死ぬほどこわい。
そしてわたしは、食べることが出来なくなった。
よく誤解されるけれど、摂食障害という病は食べ物を受け付けなくなる病気じゃない。食べることを、食べ物を身体に入れたままにしておくことを、太ることを拒絶する病だ。
拒食症は食べれないんじゃなくて意図的に食べない。(意図的に食べないから、結果胃が機能しなくなって食べものを受け付けなくなるんだけれど)
食べたい気持ちはもちろんあった。お米もラーメンも本当は美味しく食べたい。だってそれが人間の欲だもの。だけど、食べるとパニックになってしまう。どうにかして食べた分のカロリーを消費しなければという思いが全身を占拠して、だからサウナスーツを着て走るんだ。
食べないことが心地いし、胃が空っぽなことに安心する。気がつけばいつしか食べないことでわたしは精神的な安心を得ていた。
160センチ、34キロ
身体が大声で悲鳴をあげ、拒食症という病名がついたのは、ダイエットを始めてから10ヶ月が過ぎた頃。診断された頃には既に、わたしの心臓はいつ止まってもおかしくなかったほど弱っていたし、あらゆる臓器が泣き疲れて項垂れていた。
だけど、その声がわたしには全く聞こえない。明らかに緊急で異常な事態だったのに、頭の中の声がうるさすぎて、わたしはどこも痛くも痒くもなかった。自分は元気だと思ってたし、病気なんかじゃないって思ってた。身体の声がすっかり聞こえなくなっていた。
唯一感じたのは、寝ているとフワフワと今にも魂が抜け出てしまいそうな不思議な感覚だけだった。だけど不安や怖さも感じない。
あの時のわたしはきっと、生命を感じることを放棄していた。生きているけど、死んでいた。生きていたら感じる痛みも、苦しみも、怖さも不安も、何一つ感じない。そして、心地よさも、穏やかさも、安心も、愛も、喜びも、歓喜も、慈悲も感じない。
感じることを、すっかり忘れていたんだよ。
それはつまりちゃんと生きてなかったってこと。
人は誰もが本能的に愛や安心をもとめている。安心がうまく育まれなかった人は、"何か"に安心を求めてしまう。それがないと安心できないからだ。だから怖い。摂食障害をはじめとする依存症というものは。
身体に悪いって分かってる。心も壊れるって分かってる。でもそれをやめたら安心が得られないの。そしてまた今日も、わたしを弱らせるものに安心を見出してしまうの。
10年かかった。
(この病は、根本治療が難しいから何度も繰り返す人が多い。一生治らないことも多いと聞く)
今、わたしは完治している。生まれつき少食だから食べる量は少ないけれど、なんでもおいしく食べている。食べることの幸せを噛み締めている。
生きることの喜びも噛み締めている。
時折感じる痛みも、違和感も、悲しみも、不安も、ちゃんと生きているから感じられるものなんだ。
わたしがこの病を克服したのは、自分の身体を、自分の心を時間をかけて安心で沢山満たしていったから。
自分の不幸を誰かのせいにせずに、ただひたすら心身を安心させていった。
その間、出来ないだろう、と言われていた子供を身籠り奇跡的に出産した。赤子の我が子と一緒に離乳食を食べた。泣くほど嬉しかった。
少しずつ安心を感じられるようになってくると、からだの中から安堵の涙が溢れて、同時にわたしの中で凍っていた一部が溶けたような感覚を憶える。
そうやって自ら安心をたくさん育んだ。
そう。安心は"誰か"からだけではなく、自ら育んでいけるものでもある。子供の寝顔に向けるような温かい眼差しを自分に向けるだけでも、身体は緩んでいく。安堵していく。
多くの人が、人には優しくできるけど、自分には心の中で無意識でキツい口調で語りかけていたり、自分の不甲斐なさにがっかりしてしまったりしてしまうものだ。わたしもいつも自分にがっかりしていた。
そういう態度に一番傷つくのは、他の誰でもない自分自身なのだ。そうやって、無意識のうちに不安感を募らせていたりするんだ。
そして、何かに安心を求める。
苦しみを奥底に閉じ込めて
みえないようにする。感じないようにする。
そうやって自分を守ってきたの。砦だったの。
自分の中に安心を育むことはきっと自分と向き合うための第一歩。安心があるから、どんな傷にも寄り添えるし、じっくりと向き合える。そして、どんなチャレンジもしていける。自ら築いてきた砦も消えていく。
自分の中のタンクを満タンにしていれば、すり減ってもすぐに回復する。生きていればきっと勝手にすり減っていくから、満たすことに集中するんだ。
わたしは病から大切なことを沢山学んだ。生きることを学んだ。
いつでも自分のタンクを溢れんばかりの生命力で満たしていたい。溢れた生命力は、きっと、周りにも届くから。