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ひとをレッテルで括らないで~自作曲"Justice?"に寄せて

ご訪問くださいまして、ありがとうございます。

まだまだ残暑が厳しい日和の中にあっても、時おり吹き渡る風の中にほのかな秋の気配を感じる今日この頃ですが、いかがお過ごしですか?

今日は、YouTubeYouTube Music上にアップしてある自作曲"Justice?"に寄せる私の随想として、「ひとをレッテルで括らないで」と題してお書きしたいと思います。

"Justice?"のYouTube動画をここに貼りますね。前回記しました『曙光』を作曲したのと同一人物とは思えないくらい激しいインスト曲となっていますので、少し音量を下げ気味にしてご視聴いただけたら幸いです(*^^*)


「人の心が壊れる」とはどういうことですか?

脳科学的にも「ひとのこころ」の機序は未解明です

先日のことですが、私はあるニュースで「人の心が壊れている時」に関するネット記事を読みました。

その記事を執筆されたのは臨床心理士の先生とのことでした。

私はその記事のタイトルに「人の心が壊れている」と記されていたのが気になりまして、はてさていったいどんなことが書かれているのだろうと記事を開いて読んでみたのです。

すると、どうやらその心理士さんは「人の心が壊れている」という表現を通じて、「人が抑うつ状態になる」ことがあると言いたかったようでした。

その先生のおっしゃりたいことは理解できますが、医学的に「ひとのこころ」の何たるかもまだよく解明されてもいないのに、不特定多数の読者層に向けて、抑うつ状態だけを取り上げて「人の心が壊れる時」と記されてしかるべきなのかなと私は疑問に思いました。

心が壊れる」という言い方は、ひと様に向かって言うべき言葉ではないと私は思います。それは自己省察の中で、自分に関して使うなら妥当な言い回しかもしれませんが、多種多様な背景を持った人たちをひとくくりにして専門家が言うべき言葉ではないと愚考するものです。

「ひとのこころ」は探究すれば探究するほど摩訶不思議な世界に満ちています。近年流行りの脳科学の最先端の知見を持っても、「ひとのこころ」の何たるかは、まだまだ未解明と言っていいでしょう。

「ひとのこころ」を脳科学で説明し尽せるという思考の危うさ

脳科学を信奉される方からは反論の声が聞こえてきそうですね。

では私から「ひとのこころ」が脳科学的に解明されつつあると信奉する方に問いかけたいことが幾つかあります。

潰瘍性大腸炎の治療に使うことのあるブデソニド製剤は喘息治療薬としても使われていますが、このステロイドの副作用の一つに薬剤性精神障害があるという事実を、脳科学的にどのように説明なさいますか。

内科的疾患により精神疾患の症状が引き起こされる症状精神病について、脳科学信奉者の諸賢はどのように答えなさいますか。

脳と腸の働きの間に密接な相関関係がある事実が臨床医学では指摘され、脳腸相関漢方医学心身医学の価値が再認識されてきています。漢方薬は分子が大きいため、そのまま脳に直接作用しないのがミソですね。脳に直接作用しない薬がメンタルヘルスの改善に寄与する事実についてはいかがでしょうか?

心臓移植された人が、稀に心臓の提供者の記憶を引き継ぐことがあることが報告されております。いわゆる「心臓の記憶」と呼ばれる現象です。心臓に限らず、身体の各臓器や部位はそれぞれのメモリを有していることが次第に医学的に明らかとなってきています。これについてはいかがですか?トラウマを記憶するのも脳だけではありませんね。

そもそもこころや精神という実体のまだよくわからない世界を脳のニューロンや脳のシステムのみに一意的に帰結させたがることは、果たして科学的に妥当な姿勢だと言えますでしょうか?

「精神疾患は脳の病気です」と簡単に言いますが、その論拠にはまだ不可知なフィールドがあるのではないですか?

「ひとのこころ」を脳科学で説明する試みそのものを私は否定しているわけではありませんし、脳のサイエンスはいまからのAI時代を生き抜くためにも必要欠くべからざるものだと思ってはいます。

しかし、こころや精神や(あるいは「たましい」すらも)流行りの科学的思考法のテクニカル・タームで割り切ろうとすることには、いつの時代にも危険性があった歴史的事実を忘れてはいけないと思います。

看護できない患者さんはいない

ひとに病名などのレッテルを貼って括ることの弊害

医師が患者さんに対して診断を下す時には、その患者さんとどのように治療同盟を組んで、どのような配慮のもとに、いかなる方向性を持って患者さんを支援したらいいかを考慮するのが本来然るべきことでしょう。

精神医学の巨人であられた中井久夫先生の言葉に、治療して治癒させることができない患者さんはいらっしゃるかもしれないが看護できない患者さんと云うのはおられないのだ、と精神科医志願者を戒めたものがありますね。

臨床心理学の大家である東山紘久先生も述べておられますが、誰それがご機嫌斜めだから赤い丸薬を飲ませようとか、あの人は落ち込んでいるから青い錠剤を飲ませようという発想に行き過ぎるなら、それは人間をロボットとして見ている危険性があるのです。

診断アセスメントは、医学や臨床心理学をしっかり学んで専門的な訓練を受け、しかるべき資格を持つに至った人が、患者さんないしはクライエントをより深く理解しよりよく支援するための糸口またベクトルとして活用するために行うものではないでしょうか。

どこにも「自閉症」と言う名の人はいないのです。正確を期して言うなら、「自閉症スペクトラム(障害)を持っている○○さん」がおられるのですよね。

同様に、「うつ病」と言う名前の人はこの世におられません。うつ病も細分化したらいろいろありますが、「うつ病を患っている方」がいらっしゃるのですよね。

精神医学や臨床心理学を考究した方の中には、下手すると大学の教授さんでも、安易に人さまにラベリングする人がおられますが、それは対人援助の本質から大きく外れているのではないかと私は思います。

複雑性PTSDや境界性パーソナリティと言う診断的な角度から医師が診たら、よりよくその方を手当てでき、援助できるから診断したりアセスメントする価値があるのであって、診断名をラベリングして患者さんを上から見下ろすのなら診断しない方がましでしょう。

精神医学や臨床心理学の学徒を襲う誘惑として、ひとに対して上から目線になりやすいことがあります。

対人援助職に就きたがる人は、メサイア・コンプレックス救世主コンプレックス)の危険に常に晒されていることに気をつけましょうと言う警告をユング派分析家アドルフ・グッゲンビュール・クレイグが発していたことは示唆的ではないでしょうか。

「私にレッテルを貼らないで。私を名前で括らないで」

ひとをレッテルで括らないで

このように人さまにレッテルを貼ってその人の上位に立とうとする傾向は、現代社会のルッキズム礼賛傾向マウンティングにも見られます。

今日はルッキズムラベリングの危うい関係について言及することは、字数の関係上難しいのですが、ひとを数値化して観ることで相手のことを分かったつもりになる錯覚が世の中でまかり通っていることが、こんにちの家庭生活を含めた人間関係を難しくしている一因なのではないかな、と私は愚考しています。

臨床心理学や精神分析学の知識は安易にひとに適用するものではない」とは河合隼雄先生の持論でしたね。今日の記事は、その河合隼雄先生のお考えにある程度添ったものとしてお書きしたつもりです。

ではなぜ自作曲”Justice?”こと「正義?」というタイトルの作品の随想に、上述のような回りくどいことをお書きしたのでしょうか(^-^;

それはひと様に対して病名などのレッテルを貼って、人さまをひとくくりにして上から見下ろすコンプレックス的な態度が、ひじょうに多くの場合、「正義」の美名のもとに行われるからですね。

私は今日いろいろと持論めいたことをお書きしてきましたが、ここに記した内容が絶対に正しいとか妥当性に満ちているとは妄想していません。

心理士や精神科医の先生ですらどうかすると対人援助の一環として診断や見立てが行われるという基本をお忘れになってはいないかなと思うことが増えたように思いますので、こうしてラディカルなことをお書きいたしました次第です。

結びのご挨拶

私の筆致の至らなさのために、ご気分を害された方々には、深く頭を垂れてお詫び申し上げます。

いま心身がお疲れだったり、もう一つ調子が上向かないとお思いの方々にとって、私のこの記事が、良医の先生や相性の良い心理士の方と巡り会う御参考になれば幸いです。

今夜もそして明日からの日々においても、皆さまが健やかで幸せでありますように祈りつつ。

お読みいただき、ありがとうございました(*^^*)

感謝いたします(*^-^*)

夏来たりなば秋遠からじ(^▽^;)

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