日本の稀代の自由人たる柄谷行人 その2

ちょこっとばかし時間の空いてしまった感じはありますが, 今回は, 柄谷行人『世界史の構造』(岩波現代文庫, 2015年)について概略を説明してみようとおもう.

1 『世界史の構造』の目次

目次は以下のとおりである.

序文

序論 交換様式論

 1 マルクスのヘーゲル批判

 2 交換様式のタイプ

 3 権力のタイプ

 4 交通概念

 5 人間と自然の「交換」

 6 社会構成体の歴史

 7 近代世界システム

第一部 ミニ世界システム

序論 氏族社会への移行

第一章 定住革命

 1 共同寄託と互酬

 2 交易と戦争

 3 成層化

 4 定住革命

 5 社会契約

 6 贈与の義務

第二章 贈与と呪術

 1 贈与の力

 2 呪術と互酬

 3 移行の問題

第二部 世界=帝国

序論 国家の起源

第一章 国家

 1 原都市=国家

 2 交換と社会契約

 3 国家の起源

 4 共同体=国家

 5 アジア的国家と農業共同体

 6 官僚制

第二章 世界貨幣

 1 国家と貨幣

 2 商品世界の社会契約

 3 『リヴァイアサン』と『資本論』

 4 世界貨幣

 5 貨幣の資本への転化

 6 資本と国家

第三章 世界帝国

 1 アジア的専制国家と帝国

 2 周辺と亜周辺

 3 ギリシア

 4 ローマ

 5 封建制

第四章 普遍宗教

 1 呪術から宗教へ

 2 帝国と一神教

 3 模範的預言者

 4 倫理的預言者

 5 神の力

 6 キリスト教

 7 異端と千年王国

 8 イスラム教・仏教・道教

第三部 近代世界システム

序論 世界=帝国と世界=経済

第一章 近代国家

 1 絶対主義王権

 2 国家と政府

 3 国家と資本

 4 マルクスの国家論

 5 近代官僚制

第二章 産業資本

 1 商人資本と産業資本

 2 労働力商品

 3 産業資本の自己増殖

 4 産業資本主義の起源

 5 貨幣の商品化

 6 労働力の商品化

 7 産業資本主義の限界

 8 世界経済

第三章 ネーション

 1 ネーションの形成

 2 共同体の代補

 3 想像力の地位 

 4 道徳感情と美学

 5 国家の美学化

 6 ネーション=ステートと帝国主義

第四章 アソシエーショニズム

 1 宗教批判

 2 社会主義と国家主義

 3 経済革命と政治革命

 4 労働組合と協同組合

 5 株式会社と国有化

 6 世界同時革命

 7 永続革命と段階の「飛び越え」

 8 ファシズムの問題

 9 福祉国家主義

第四部 現在と未来

第一章 世界資本主義の段階と反復

 1 資本主義の歴史的段階

 2 資本と国家における反復

 3  1990年以後

 4 資本の帝国

 5 つぎのヘゲモニー国家

第二章 世界共和国へ

 1 資本への対抗運動

 2 国家への対抗運動

 3 カントの「永遠平和」

 4 カントとヘーゲル

 5 贈与による永遠平和

 6 世界システムとしての諸国家連邦

以上である.

2 序文の解説

前回の, https://note.com/headphone/n/naad8115c18b5?magazine_key=m1d5a635c414c と同様の方針で, 序文のみの解説を行うこととする. これによって, 本の魅力を損なわずに本を読んでいただける人が増えれば幸いである.

「私は, 「マルクスをカントから読み, カントをマルクスから読む」という仕事を「トランスクリティーク」と名づけた. これはむろん, この二人を比べることや合成することではない. 実は, この二人の間に一人の哲学者がいる. ヘーゲルである. マルクスをカントから読み, カントをマルクスから読むとは, むしろ, ヘーゲルをその前後に立つ二人の思想家から読むということだ. つまり, それは新たにヘーゲル批判を試みることを意味するのである」(ⅲページ)

なんと, いきなりヘーゲルという偉大なる哲学者の登場である. しかも気付いているだろうか. 柄谷はヘーゲルのことを哲学者と呼び, マルクスやカントのことを思想家と呼んでいることに. これは柄谷のことだから, 単なる悪戯ではなく, 確固たる信念のもとに, この呼び分けを行なっているに違いない. これは私の想像だが, ヘーゲルは人間の積み上げた知を愛するものとして哲学者と呼ばれるのに対し, カントやマルクスはその知には限界があることを突き付けたものとして思想家と呼ばれるのではないか, と思っている.

「『トランスクリティーク』で, 私はつぎのように述べた. ネーション=ステートとは, 異質なものである国家とネーションがハイフンで結合されてあることを意味している. しかし, 近代の社会構成体を見るためには, その上に, 資本主義経済を付け加えなければならない. つまり, それを資本=ネーション=ステートとして見るべきである. それは相互補完的な装置である. たとえば, 資本制経済は放置すれば, 必ず経済的格差と対立に帰結する. だが, ネーションは共同性と平等性を志向するものであるから, 資本制がもたらす格差や諸矛盾を解決するように要求する. そして, 国家は, 課税と再分配や諸規制によって, それを果たす. 資本もネーションも国家も異なるものであり, それぞれ異なる原理に根ざしているのだが, ここでは, それらがボロメオの環のごとく, どの一つを欠いても成り立たないように結合されている. 私はそれを, 資本=ネーション=国家と呼ぶことにしたのである」(ⅳ-ⅴページ)

さて, この引用において, 柄谷の, 世界に対する現状認識は尽くされているのであるが, 解説してみよう. まず, ネーション=ステート, という概念についてである. 日本人はなぜだか「国民国家」という概念を当然視する傾向に強いのであるが, 本来的に民族と国家は別物である. それが証拠に民族の数と国家の数は一致しない. さらに言えば民族とは何かという問いに対して明確な答えはまだ出ていないのである(これについては, アーネスト・ゲルナー『民族とナショナリズム』(岩波書店, 2000年)を読んでほしい). 従って, ネーションとステートは異質の存在でありながらある時, 結婚したのである, つまり, 結びついたのである.

ところが, 歴史的産物としての資本制経済が人類史に登場すると, ネーション=ステートという結合物に, これが付け加わることになった. この, 資本=ネーション=国家という, あたかも三位一体公式(プロテスタントではこれを三一公式と呼ぶ)に見える構造体は, 極めて強い, あたかも壊れることのないようなものである. 資本の暴走が強まれば, ネーション=ステートがそれを抑える方向に働いたり, ネーションの暴走が強まれば, 資本=ステートがそれを抑える方向に働いたりするのである. 大切なのは資本, ネーション, ステートは全て交換の原理が異なるもので成り立っているのにもかかわらず, ボロメオの環, つまりワッカを解くことができない環の如く結びついているのが, 現代であるとする, 柄谷の認識である.

「このような [ネグリ&ハートの描いたマルチチュードによる世界同時的な反乱がなされるだろうという]オプティミズムは, 2001年, ちょうど私が『トランスクリティーク』を出版したころに起こった, 9・11以後の事態によって破壊された. この事件は, 宗教的対立と見えるが, 実際には「南北」の深刻な亀裂を露出するものである. また, そこには, 諸国家の対立だけでなく, 資本と国家への対抗運動そのものの亀裂があった. このとき, 私は, 国家やネーションがたんなる「上部構造」ではなく, 能動的な主体として活動するということを, あらためて痛感させられた. 資本と国家に対する対抗運動は一定のレベルを越えると必ず分断されてしまう. これまでもそうであったし, 今後においてもそうである. 私は, 『トランスクリティーク』で与えた考察を, もっと根本的にやりなおさねばならない, と考えた 」(ⅶ-ⅷページ. [  ]内は引用者による)

さて, この引用では柄谷にはしった衝撃が語られている. つまり9・11事件である. 一般的にはこの事件は, イスラム原理主義者の中の過激派による, アメリカに端を発する帝国主義政策への反逆として, 宗教的対立として語られている. しかし柄谷はこれを, 南北問題として, つまり経済的問題として認識しているのである. そこから柄谷は, ネーションやステートというものが, いわゆる唯物史観の公式として述べられているところの「上部構造」ではないことを, つまり, ネーションやステートも能動的な主体であることを痛感させられたと述べている. この認識は面白いものであるが, これを解説すると本の魅力を損なうことになりそうなので, しないことにする.

「「世界史の構造」から明らかになるのは, つぎのことである. 資本=ネーション=ステートは世界システムの中で生じたものであり, 一国内部だけの所産ではない. したがって, それを揚棄することも一国内だけではありえないのである. たとえば, 一国で社会主義革命が起これば, 他の国はただちに干渉しに来るか, ないしは, その機会に漁夫の利を得ようとするだろう. マルクスは当然それを考慮に入れていた. 《共産主義は, 経験的には, 主要な諸民族が〈一挙に〉, かつ同時に遂行することによってのみ可能なのであり, そしてそのことは生産力の普遍的な発展とそれに結びついた世界交通を前提としている》(『ドイツ・イデオロギー』). この理由から, マルクスはパリ・コンミューンの蜂起に反対した, いざ起こってみれば, それを熱烈に称賛したけれども. なぜなら, パリ・コンミューンは一都市あるいは, せいぜいフランス一国の出来事にすぎないからだ. それは敗北するに決まっており, もし存続したとすれば, フランス革命と同様に恐怖政治に陥るほかないだろうからだ. のちのロシア革命はそれを実証したのである」(ⅹⅳ-ⅹⅴページ)

『世界史の構造』が示す現状認識について, 結果だけ知りたいのならば, ここを読めば十分である. なぜなら柄谷自らが教えてくれているからである. 重要な点としては, 一国で社会主義革命が起こったとしても, それは他の国から干渉を受け, せいぜい恐怖政治におちいるかロシア革命の如く圧政政治になるかのいずれかになる, という冷徹な現状認識である. これに反論できるものはいなかろう. マルクスからの引用も, これと同意味のものである.

「カントの懸念通り, 一国だけで起こったフランスの市民革命は, たちまち周囲の絶対王権諸国に干渉され, 外からの恐怖は内部の「恐怖(政治)」に帰結した. また, 外に対する革命防衛の戦争が, ナポレオンによるヨーロッパ征服戦争に転化していった. その最中に, カントは『永遠平和のために』(1795年)を刊行し, 諸国家連邦の設立を提唱したのである. そのため, これは平和主義的な構想だと考えられている. だが, カントが目指したのは, 戦争の不在としての平和ではなく, 国家と資本が揚棄されるような市民革命の世界同時的実現である. その最初のステップが諸国家連邦であった. こう考えたとき, カントとマルクスが思いもよらぬかたちで際会することになった」(ⅹⅶページ)

柄谷のいうところでは思想家であるカントの, 批判シリーズ(純粋理性批判, 実践理性批判, 判断力批判)以外で有名なものとして『永遠平和のために』という本があるのであるが, これは柄谷によれば, 平和主義的なものではなく平和的なものであるという. つまり, 真なる平和としての, つまり戦力の世界同時的一斉放棄としての, 永遠平和というものの希求であるという. 戦力が使われないのではただの平和主義であって不足である. 真なる国家と資本の揚棄とは, 世界同時的な武力放棄にかかっているということを, 柄谷はカントから読み取っている. この世界同時的な革命という視点においてカントとマルクスは同じ視点を持っていることになるのである.

「カントは, 諸国家連邦が, 人間の善意によってではなく, むしろ戦争によって, ゆえにまた不可抗力的に実現されるだろう, と考えた. 実際, 彼の構想は, 二度の世界戦争を通じて実現されてきた. 国際連盟および国際連合である. もちろん, それは不十分なものである. だが, 資本=ネーション=ステートを越える道筋がこの方向を進めることにしかないことは, 疑いを入れない」(ⅹⅶ-ⅹⅷページ)

国際連合と国際連盟が, 全ての国家の参加する連邦ではないことは明らかであろう. とするとこの記述は絶望と希望を同時にもたらすことになる. 絶望とはすなわち, 二度の世界大戦を超えるような世界大戦がない限り, 国際連盟と国際連合を超える, 諸国家連邦はできないだろうというものである. 希望とは, 二度の世界大戦を経てもなお, 人類は人類を皆殺しするところまでは行かないというものである. これは黙示録的あるいは千年王国的視点である. つまり, 絶望の先にこそ希望あれというものである.

3 本当は, 序論が, 柄谷の理論的支柱なのですが...

『世界史の構造』の序論には「交換様式論」という, 柄谷の思想的なあるいは理論的な支柱となる議論が書いてあるのだが, これはここでは解説しない. どうかみなさんが自分で読んで欲しいと思うものである.



いいなと思ったら応援しよう!