わからないことは善である

最近思うのだが, 「物事を深く, 徹底的に考える」ということに対する, 何かはよくわからないもののマイナス評価が横行しているように思われる. 正確に言えば, 「目の前の現象をろくに評価しないまま受け入れている」という機会があまりにも多く見受けられるのだ.

1 生徒は考える, 先生はその後押しをするのみ

例えば, これは私がバイトで行なっている個別指導塾の先生として働いている時に感じたことなのだが, 生徒が目の前の問題から情報を引き出そうとすることを行おうともしないし, 行おうとしてもそれが十分に行えていない, というケースをよく見る. 無論行おうとしてもそれが十分に行えていない生徒の場合には, 問題ではなく, それは単にその能力を増強させるような指導を行えば良いだけなのである. だが問題なのは, 目の前の情報を読み取ろうとする姿勢が感じられない生徒が一定数いるという事実である. そのような生徒も彼らから言わせれば一所懸命に考えているのだろう.

しかし私はそれでも申し上げたい. 「考えなさい!悩みなさい!苦労しなさい!そのような時間をたくさん経験したものだけが, たくさん成長できるのだよ!」と. あるいは「問題文との会話ないし対話ができていない」生徒が多いのである, とも言い換えることができようか. 当たり前すぎて等閑視されている事実として「問題文が解答へたどり着くための最大の, そして唯一のヒントである」という事実を私はここで言及しよう. なぜなら, 問題が思うように解けない生徒に限って問題文の精読を怠り, 問題文の誤って理解し, 問題文の内容を自分で捏造してしまうという現象があまりにも多く見受けられるからである.

さらに申し上げれば, いまだに「わからないことは悪いことではなく, わからないことを放置することが悪いことである」という当たり前の事実を事実として受け止めている生徒が, あまりにも少ないように思われるのだ. 人間はわからないからわかろうとするのであって, 間違ってもわかっている状態が所与ではないのだ. 換言すれば人間は, わからない状態が所与の状態なのだ. それなのに「わからないことが悪い」などと言ってしまってはそれは, 「あなたは非人間である」と言ってしまっていることになるのではないか!

私は少なくとも自分が教えている生徒を「非人間である」などとは評価したくないし, できないので, 私は努めて「わからないことは悪いことではなく, わからないことを放置することが悪いことである」という当たり前の事実を生徒に何度も言っているのである. 人間は何かをわかるということに知的興奮を覚える生き物だが, その理由は人間は本来的に何もわかっていない生き物だからである. わかっていないからこそ, わかっている状態にプラスの感情を持つのである. わからないという状態を数多く経験したものだけが, わかるという知的興奮を数多く得ることができるのだ. 

2 大人の社会的責任

私は例として私が教えている生徒を挙げたが, この生徒そのものには何の責任もなく, そのような生徒を育て上げた環境全てに責任があると言いたいのである. 正確に言えば, 子供に責任はないのである, いや子供が犯したことに対する責任を大人が取れないような社会は社会として終了しているのである. 繰り返そう. 子供の犯したことに対する責任を, それも全責任を大人が取れないような社会は社会として終わっているのであり, それはもはや社会とは呼べないのである. 私は何もこのようにいうことによって, 子供の犯した罪は全て無罪とすべきである, などと申し上げるつもりはないのである.

だが, 子供が犯した罪を全て子供に押し付け, 大人は関係ないと振る舞う大人がいるような社会は, 社会として終了していると言いたいだけなのだ. 今は自己啓発本などにおいて大人が「間違いを恐れるな」と言っているらしいのだが, そしてそれはまことに結構なことだが, そのように言った大人がいざ子供の犯した間違いに対して, それを断罪するような言説をとってはいないだろうか. 間違いを恐れるなと言った人間が, 他人の間違いを断罪してはいないだろうか. 「罪を裁くものは罪によって裁かれているのである」という当たり前の事実に気づいた上で大人は子供に対して向き合うことができているのだろうか. 子供は大人が思っている以上に大人を正直に見ているものである.

例えばいくら父親が「自分の部屋は綺麗にしておきなさい」と子供に言ったところで, その父親がそれを実行できてきなければ, 子供はその指示の空虚さに気づき, それを実行などしないのである. 他人に何か物申すのであれば, まずはそれを自分で実践せよ!自分が実践できもしないことを他人に要求することなかれ!さすれば人間には何が可能なのか?それは端的に言えば「自分は何もできない」ということを自覚することだけである. 「自分は何かしらはできるだろう」と思っている人間はそれだけで傲慢である.

少なくとも「お前は何もできないのだ」と言われて精神が動揺するようではダメなのだ. なぜなら「何もできない」ことが当たり前だからである. 「何もできない人間」がどうして間違えを犯さないでいられようか. 「何もできない人間」がどうして他人の行動を「間違い」として断罪することができようか. 「何もできない人間」がどうして何かしらはできるという幻想にとらわれることができようか. 全ては反語的なのであって全ては不可能なのである. いや私はこう述べなければならない. 人間は不可能だからこそ可能なのである. すなわち「人間は自分が何もできないという事実を真に理解したものだけが, 何かしらができるようになる」という逆説である. 人間は何もできないからこそ何かができるのであって, 何でもできるから何かができるわけでは決してないのである.

3 流れに身を任せる川は選べよ

少し話題が変わるが, どうも最近の人は「流れに身を任せる」ことしかできないようだ. その流れは「常識」とか「慣習」と言って良いだろう. 流れに身をまかせることの何が楽しいのか私には全く理解できないのである. なぜなら, そんなことは人間でなくてもできるし, 何なら人間以外の動物の方が上手にできるからである. 私は人間であるから人間らしく流れに反逆することが当然であると考える. というよりも流れに反逆してこそ, 流れに乗ることが, それも自発的に可能なのだ. 考えても見よ. サーフィンなどは波に逆らって運動しているではないか!

大体において「常識」とか「慣習」というものは不完全な存在であるところの人間が勝手に作り出したものに過ぎないのだから, そんなものに安易に身をまかせるという神経が私には理解不能なのである. 繰り返す. 不可能な存在たる人間が勝手に作り出した「常識」とか「慣習」とか言われる何からしい何か, に安易に身を任せられる人間がいるとしたら, 私はその人間を最大限に評価しよう!まことに素晴らしいことである!「常識」とか「慣習」とかいうものは変わるものなのだ. 万物は流転する!!

例えばグループラインにおいて長文の投稿をし, 皆の意見を聞くという行為は「非常識」であると指摘した私の友人が数名いるのだが, 私は彼ら彼女らに対して悉く次のように返した, すなわち「理解はするが共感はしない」と. 本音を言えば「私の理解をはるかに超えている」と言いたいのだが, それは単に私の勉強不足が原因であるので, 別段そのように言ってきた友人たちに向かっては言わなかったのであるが...皆に意見を聞きたいときにはどうしたら良いというつもりなのか?皆で一堂に会して議論しろとでもいうのか. 冗談じゃない!そんなことをしようとする方がはるかに多くの労力を割くことになるではないか!私は自然の法則に従い, 最小のエネルギーを用いて最大のことをなそうとしているに過ぎないのであって, 私のこのような思想に理解を示さない人間は「人間の法則」に縛られているのである, 換言すれば「自然の法則」に逆らっているのである.

私は何らおかしいことを述べているつもりはないし, 不完全たる人間が作り出した法則などに従いたくはないので, 何か私に反論したい方はどうぞ遠慮なく私に意見したまえ!!「常識」や「慣習」などは, 私から見たら極めて価値の低いものである, なぜならそれらは全てが不完全な存在である人間が, 勝手に無造作に傲慢に作り出したものに過ぎないからである.

私は人間が作り出したものを高く評価はしないしできない, それはそのような行為がすでに大きな傲慢であるからだ. 私は謙虚に過ごしたいのである. 従って私は「常識」や「慣習」に従いたくないし, 従う必要もないと思っている. 仮に「常識」や「慣習」に従う態度を謙虚というのであれば, その謙虚は, 謙虚=傲慢である!!不完全たる人間が作り出したものを信じるという行為において謙虚さなど微塵もないのだから, その行為は傲慢であると言わざるを得ない.

4 人間は悪である

私の思想は一貫しているはずである. すなわち「人間は全てにおいて不完全であると自覚することによってしか, 人間として振る舞うことはできない」ということである. ようするに「人間は悪である」という思想である. ここで間違えてもらっては困ることは「人間が悪だとしたらより良くするように振舞おうとすれば良いのではないか」という思想は, それがすでに人間から生まれた思想なのだから「悪」なのである. 人間に善性があるなどとは間違っても思ってはならない. されど人間は不完全なので「人間は悪である」という思想を事実として受け止めることは不可能なのである. だから私は私の思想を次のように言えるのかもしれない. すなわち「人間は不可能の可能性に挑戦し続けなければならない」という思想である.

自分が何かはできるという発想自体が傲慢であり, かといって自分は何もできないという発想に安住することも, それは結局は自分が何かはできている証拠なので傲慢な行為である. 換言すれば人間に安住は許されないのである. 常に動き続けよ!止まるな!留まろうとするな!自分が否定されることによってしか自分を肯定できないという, 当たり前の事実に気づけ!自分を肯定することは自分を否定することであるという, 当たり前の事実に気づけ!さすれば, そのような人は幸せだろう. もっともこの世に生きる人間は誰一人としてそんな人にはなれないのであるが...

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