日本の稀代の自由人たる柄谷行人 その3

今回は『哲学の起源』(岩波書店, 2012年)について簡単に紹介していきたいと思う. まず否定されるべきことは, これは, 哲学史の解説でも, 哲学の解説でもないと言うことだ. また, この作品は, デモクラシーを相対化するための作品であることを, 予め知っておくと良いだろう.

1 目次の紹介

この本の目次は以下の通りである.

はじめに

序論

 1 普遍宗教

 2 倫理的預言者

 3 模範的預言者

第一章 イオニアの社会と思想

 1 アテネとイオニア

 2 イソノミアとデモクラシー

 3 アテネのデモクラシー

 4 国家と民主主義

 5 植民とイソノミア

 6 アイスランドと北アメリカ

 7 イソノミアと評議会

第二章 イオニア自然哲学の背景

 1 自然哲学と倫理

 2 ヒポクラテス

 3 ヘロドトス

 4 ホメロス

 5 ヘシオドス

第三章 イオニア自然哲学の特質

 1 宗教批判

 2 運動する物質

 3 制作と生成

第四章 イオニア没落後の思想

 1 ピタゴラス

  a 輪廻の観念

  b 二重世界

  c 数学と音楽

 2 ヘラクレイトス

  a 反民衆的

  b 反ピタゴラス

 3 パルメニデス

  a ヘラクレイトスとパルメニデス

  b ピタゴラス批判

  c 間接証明

 4 エレア派以後

  a エンペドクレス

  b 原子論

  c ポリスからコスモポリスへ

第五章 アテネ帝国とソクラテス

 1 アテネ帝国と民主政

 2 ソフィストと弁論の支配

 3 ソクラテスの裁判

 4 ソクラテスの謎

 5 ダイモン

 6 ソクラテスの問答法

 7 プラトンとソクラテス

 8 哲人王

 9 イノソミアと哲人王

附録 『世界史の構造』から『哲学の起源』へ

以上である.

2 序論の解説

「紀元前六世紀ごろ, エゼキエルに代表される預言者がバビロンの捕囚の中からあらわれ, イオニアには賢人タレスがあらわれ, インドにはブッダやマハヴィーラ(ジャイナ教開祖)が, そして, 中国には老子や孔子があらわれた. これらの同時代的平行性は驚くべきものである. これをたんに社会経済史から説明することはできない. たとえば, マルクス主義はこれを, 宗教や哲学を経済的土台(生産様式)によって規定される, イデオロギー的・観念論的な上部構造とみなしてきた. しかし, 経済的土台の変化を見ても, この時期に起こった変化を十分に説明できないのである」(3ページ)

柄谷にとっては, この同時代的平行性は, この記述だけで驚きだと言うことらしいのだが, 基礎教養がないと, 何に驚いているかわからないと思う. 従って, まず, ここに出てくる固有名詞について何点か説明しようと思う.

エゼキエルとは...

旧約聖書中バビロニア捕囚時代の預言者。ヘブライ語で「神が強める」の意。祭司ブジの子。前 597年にバビロン捕囚に送られたが,その5年目に神の召命を受け預言活動を始めたとされる。その活動は約 20年以上にわたったと考えられ,その間故国イスラエルの運命をさまざまな比喩や象徴をもって預言した。同時に神の慈悲としての古い契約に代る永遠の契約について語り,また内面的な回心の必要を明らかにしている。エゼキエルの豊かな想像力は,その多くの比喩的な表現にみられる。たとえばやがては生命を得,新しきイスラエルとなる乾いた骨の堆積した谷のことを幻想的に語っている (エゼキエル書 37章) 。また彼は神を敬うことの深い意義について,神の名の神聖さについて,熱心に教えを広めた。きわめて霊感に満ちた預言者であり,その思想は一貫してメシア預言であった。 

タレスとは...

[生]前624頃.ミレトス
[没]前548/前545
ギリシアの政治家,哲学者。七賢人の一人。いわゆるピュシオロゴイ (自然学者) の先駆者,イオニア学派の開祖として「哲学の父」と呼ばれる。彼は万物の原理 (→アルケ ) を水に求め,ほかの一切の事物はすべて水より自然的に生じると説いた。伝承によれば,天文学の創始者,幾何学の導入者でもあり,円が直径によって2等分されることなどいくつかの定理を発見したといわれる。また霊魂 (プシュケ) を宇宙全体を動かすものとして考えていたらしい。プラトンは俗事にわずらわされず研究に没頭する哲学者の典型をタレスに認めたが,アリストテレスはタレスを実際的な才覚の持主として伝えている。

マハヴィーラとは...

前444ごろ〜前372ごろ
インドのジャイナ教の開祖
釈迦と同時代の人と考えられ,北インドのクシャトリヤの出身。バラモン教を批判して極端な不殺生主義と厳しい戒律を定め,人生を苦とみて正信・正知・正業を通しての魂の救済を説いた。マハーヴィーラ(大勇)・ジナ(勝者)の尊称をもつ。

要するに, 柄谷は今の宗教として生き残っている宗教の開祖にあたる存在が, 紀元前六世紀頃に, ほぼ同じタイミングで, 存在していたと言う事実に, 驚きを感じているのである. そしてこれは, いわゆるマルクス主義の認識枠組みでは, 説明しきることはできないと言うことを柄谷は言いたいのである.

「通常, 「交換」と考えられるのは, 商品交換である. 私はそれを交換様式Cと呼ぶ. しかし, これは共同体と共同体の間に生じるものであり, 共同体や家族の内部では生じない. 後者において存在するのは, 贈与とお返しという互酬交換, すなわち交換様式Aである. さらに, それらと異なるタイプの交換, すなわち, 交換様式Bがある. これは支配ー被支配関係であり, 一見すると交換には見えない. しかし, 支配者に服従する者が, そのことによって安堵を得るならば, それは交換である. 国家はこのような交換様式Bに根ざしている」(4ページ)

「普遍宗教もまた, 交換様式の観点から見ることができる. 一言でいえば, それは, 交換様式Aが交換様式B・Cによって解体されたのちに, それを高次元で回復しようとするものである. いいかえれば, 互酬原理によって成り立つ社会が国家の支配や貨幣経済の浸透によって解体されたとき, そこにあった互酬的=相互扶助的な関係を高次元で回復するものである. 私はそれを交換様式Dと呼ぶ」(7ページ)

さて, 柄谷行人の理論的支柱を支える「交換様式論」について, ここでようやっと説明することに成功した. とは言っても, これだけでは説明不十分であるのはわかっているのであるが, しかし, 交換様式のAからCまでについては, わかるところがあると思う. ヘーゲルの『法の哲学』を知っている方であれば, そのヘーゲルの作業を更新していることに気づかれよう.

問題となるのは, 柄谷の提唱する交換様式Dである. これについては, もう少し, 柄谷の説明を聞いてみてから, その意味を考えてみようと思う.

「Dは, Aを高次元で回復しようとする. しかし, このことは, ひとまず, Aを否定することなくしてありえない. 別の観点からみれば, それは宗教における呪術性を否定することである. マックス・ウェーバーが普遍宗教の特質を”脱呪術化”に見出したことはその意味で正しい. 脱呪術化は概ね, 自然科学との関係で考えられるが, ウェーバーがいう脱呪術化とは, 祭祀や祈願というかたちで神を人間の意思に従わせることの否定である. 《宗教的行為は「神礼拝」ではなくて, 「神強制」であり, 神への呼びかけは, 祈りではなくて呪文である》. 神強制の断念によって, 自然に対する科学的態度が可能になるのだ」(7ページ. 《 》内は, ウェーバー『宗教社会学』, 武藤一雄ほか訳, 35-36ページ. による)

さて, ここではマルクスの「否定の否定」という論理が援用されている. だが, それと同じくらい重要なこととして, 柄谷は, 神を人間の意思に従わせることを否定する姿勢が, 自然に対する科学的態度を可能にさせるということを言っているということである. つまり, 神を人間の意思に従わせるような姿勢でいる限り, 自然に対する科学を行うことは不可能であると言いたいのである. この段階で, この世にあるほとんど全ての科学は, 実は宗教ではないか, と思わせることになるだろう.

「バビロンに連れて行かれた人々は, 比較的に知識階層が多く, また彼らは主として商業に従事した. すなわち, 彼らは宗教もふくめた旧支配機構から離れ, 同時に農耕共同体からも離れて, 個人として存在したのである. そのような諸個人が, 神の下に新たな盟約共同体を形成した. それが「神と人間の契約」という形をとったのである. これは遊牧民の部族連合体の結成と似て非なるものだ. それはまた, 王朝時代に活躍した預言者の思想とも異なる」(10ページ)

「実際には, ローマ時代にいたるまで, ユダヤ教は広がった. むろん, それはユダヤ民族の人口が増大したからではない. 普遍宗教としてのユダヤ教への改宗者が増加したからだ. たとえば, イエスの教団もユダヤ教の一派として広がったのである. 彼らは遊動的・共産主義的な集団を形成した. それは同時代に栄えた他の宗派, たとえば, エッセネ派にも見られるものである. これら遊動的宗教活動はユダヤ教の中で, "バビロン"の時代にあった盟約共同体を取り戻そうとする運動であった」(11-12ページ)

さて, この二つの引用は何を言っているのだろうか. まず, バビロン捕囚で連れて行かれた人は, 個人になってから共同体を形成したということである. これは, 既存の共同体意識を破壊することによってのみ成し遂げられることであり, 柄谷は, それが可能だった理由として, もともと商人的な人が多く連れて行かれたことにあると述べている. 商人とは簡単にいえば, 空間的に剰余価値を得ることを目的とする存在である. つまり別な共同体を横断し, その差額で持って利潤を得ようとするのが商人であるのだ.

また, キリスト教の基本知識でありながら知られていない事実として, イエスキリストは自らをキリスト教だとは思っていないということが述べられている. キリスト教をそれたらしめたのはパウロなのである. そして, イエスの集団は, バビロンを取り戻そうとしたのであって, その意味は交換様式Dなのであるということを柄谷は言いたいのである.

「だが, このようにいうと, 普遍宗教がもっぱらユダヤおよびその系列の預言者らによって開示されたかのように聞こえる. そうではない. この点で, ウェーバーが預言者に関して述べた区別は示唆的である. 彼は預言者を倫理的預言者と模範的預言者の二つに分けた. 前者の場合, 預言者は旧約聖書の預言者, イエス, ムハンマドのように, 神の委託を受けてその意思を告知する媒介者となり, この委託にもとづく倫理的義務として服従を要求する. 後者の場合, 預言者は模範的な人間であり, 仏陀, 老子, 孔子のように, みずからの範例を通して他の人々に宗教的な救いへの道を指し示す. つまり, ウェーバーは, 通常預言者と見なされていない思想家を預言者と見なすことによって, 従来の世界宗教の区分をカッコにいれたのである」(12ページ)

これは柄谷の問題意識からすれば決定的なことである. どういうことか. 柄谷は「哲学の起源」を探ることを目的としてこの本を書いたわけであるが, 起源を探るということは起源を疑うこと, もっといえば終わりから見るということに, 柄谷の場合にはなるからだ. つまり, 始まりは終わりから見えるという姿勢を柄谷はとっていることになる. だとすれば, 従来の区分など, 柄谷の前では無意味である. それは乗り越えられるべき対象でしかないのである.

「老子や孔子の教えはその後に新たな宗教を開くものとされた. しかし, そもそも彼らはそれまでの宗教を否定する自由思想家であった. その点でイスラエルの預言者やイオニアの自然哲学者たちと何ら変わるところはない. 宗教, 哲学, 科学といった今日の分類に従うかぎり, 紀元前五, 六世紀に起こった世界史的な「飛躍」は到底理解することができない. それらはいずれも人類史における交換様式Dの出現を画しているのである. 私がイオニアに始まる「哲学」について考え直すのは, 以上の理由からである」(15ページ)

3 この目論見がどの程度成功しているか

私にはこの, 柄谷の目論見がどの程度成功しているか, それを判断するだけのものを持たない. 専門家から見れば柄谷の論考は雑に見えるのだろうが, 柄谷はむしろ, そのような専門家と言われるひとたちのものの見方を乗り越えようとしているのであって, 専門家のそのような論評は柄谷にとって意味がないのである. むしろ柄谷が望むのは, この路線でものを考えることによって, 柄谷を乗り越えるような論考の登場であろう.




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