縛られても自由でも苦しい社会
先日会社の最寄り駅から職場まで
歩いていたときのこと、
信号のある交差点を渡ろうとしていた。
私がいたのは交差点までまだ数メートルの位置。
そこに1台の車が後ろからやってきて
左折をして私が渡ろうとする交差点に
差し掛かったのだが、
私はその車が私をスルーして左折すると
思っていた。
ところが、その車は私がまだ交差点まで
距離があるにも関わらず左折せず
横断歩道前で止まっているのである。
私のほかに歩行者も自転車もなかったので
間違いなく私を待っているのであろう。
ドライバーを待たせてしまうのも悪いので
私は走り始め、ドライバーに頭を下げた。
これは誰しもが経験する日常の光景であろう。
だが、私はこのシチュエーションでは
車に先に行って欲しいと思った。
自動車の運転に関しては捉え方に個人差があるが、
歩行者に対して慎重に運転されすぎると
正直「先に行って欲しい」と思うことがよくある。
私がこう思ってしまうのには2つの理由がある。
一つはそのドライバーに対して気を遣うからである。
私としては先に行ってくれたほうが
相手に対して気を遣わなくてもいいのに
相手が自分のために止まってくれたならば
気を遣って早くいかねばと思ってしまう。
それが嫌なのだ。
道路では歩行者の方が優先なので
そんなこと気を遣う必要はないと思う方も
いるだろうが、
私はどうしても気を遣ってしまうのだ。
二つ目の理由は私が気を遣ってしまう理由と
リンクしているが、
その車の後ろを走る車が自分ならばと
考えてしまうからである。
歩行者を待つことはドライバーとして
必要なことだとは認識しているものの、
歩行者待ちでなかなか左折が進まず
何度も信号に引っかかるようなシチュエーションでは
どうしてもイライラしてしまうものである。
仮にそれほど混雑していない道だったとしても、
右左折する車が前で停車すると
その流れが止まってしまうので
歩行者に過剰に反応して停まる車に遭遇すると、
「そこは止まらず行けばいいのに」と
思ってしまうことがある。
その気持ちがわかるからこそ、
自分が歩行者になった時に過剰に反応されると、
それに対して自分が早く横断しなくては
ならないと感じ、焦ってしまうのだ。
ちゃんと周りに聞いたことはないが、
恐らく私以外にも道を歩いていて
過剰に反応されたことにより逆に
気を遣って嫌だと感じたことがある人は
多いのではないだろうか。
では、このような感情がなぜ起こってしまうのか。
それは運転のマナーが個人の裁量に
委ねられているからである。
別に規律上は停まらなくてもいいという中で
個人の判断で停まってくれた人に対して
その気持ちに応えなくてはならないと
思ってしまうのだ。
数年前、初めてヨーロッパの国を訪問したとき、
オーストリアの町を歩いていて私は驚いたことがある。
それは、横断歩道で歩行者を見かけたら
驚くほどどの車もピタっと停まることである。
日本でも横断歩道に歩行者がいれば停まる車はあるが、
その割合は私の肌感覚では半分程度である。
歩行者を渡らせるためには対向車線も
停まらなくてはならないので、
対向車線に多くの車が流れていれば
あえて停まらないという選択をすることは
私にもある。
だが、オーストリアでは驚くほど
どの車もピッタリと停まるのだ。
これが不思議で現地のスタッフに後程聞いてみると、
現地ではそれをしないところを警察に見られると
罰金が科せられてしまうらしい。
残念ながら私はヨーロッパではドイツとポーランドにしか
行ったことはないが、
その両国においてもこの傾向は全く同じであり、
右折(日本でいう左折)する際にも
歩行者が近くにいれば必ず停まるスタンスは
徹底されていた。
こうして明確にルール化されていれば
自分が歩行者になった時に
妙に気を遣う必要はないだろう。
日本の様に妙に善意に任されてしまうがゆえに
逆にその善意が重荷になってしまうことがない。
私たちは自由であることを楽だと感じるが、
実は適度に縛られている方が
楽なことも多いのかもしれない。
ちなみにヨーロッパとは全く逆で
マレーシアやタイ、ベトナムなどの
東南アジアの国々に行くと、
横断歩道に歩行者がいても停まるという
習慣は全くない。(あくまで私が知っている限りだが)
では歩行者はどうやって道を渡るかというと、
マイペースでゆっくりと横断歩道を進むのである。
すると道を走る多くのバイクや車は
私達が通る時だけ停まったり避けたりして
横断することができるのだ。
最初このことを教えられたとき、
私は恐ろしくてなかなか道を渡ることが
出来なかったが、
何度か渡るうちにドライバーやライダーとの
アイコンタクトが取れるようになって
堂々と横断できるようになっていた。
一見するとこの東南アジア方式は無秩序なように
見えてしまうが、
実はこれもドライバーたちの間にちゃんと
暗黙のルールのようなものが浸透しているからこそ
成り立つことである。
そう考えてみると、ある意味ルールで縛られているのと
同じなのだ。
私達が住むこの日本という国は
実は他国に比べると自由な部分が多い。
だが、その自由さ故に逆に苦しくなることが
あることを横断歩道で実感した。
何でもかんでも法律で縛られるは
とても息苦しいようであるが、
実はそうすることで逆に楽になることも
沢山あるものなのである。
縛られすぎても自由すぎても苦しい、
何だか人間って難しい生き物である。