なぜ討論番組を見るのが嫌なのか
昨日スーパーに買い物に行って帰ってくると
妻がテレビで何かを見ていた。
パッと見るだけでも民放とは少し
雰囲気が異なることがわかったので
一体何かと思ってみると、
ABAMA TVの討論番組であった。
そう言えば数か月前から見たいコンテンツがあると
妻がABAMA TVに登録したと言っていた気がする。
とはいえ、私はあまり興味のない内容だったので
スルーしながら夕食の調理に取り掛かった。
我が家はリビングダイニングにキッチンが
あるような構造である。
それ故に、調理をしていると
妻が見ている内容が嫌でも目に入ってきてしまうし
耳からも内容が入ってきてしまう。
色々な議題について出演者が
議論を戦わせる形式の番組だったのだが、
私はなんとなくそれを見ていると
嫌な気分になってきた。
なぜなら出演者が各々自分の意見を述べて
他の人の意見を打ち消そうとしているように
見えたからである。
元々私がこのような討論番組が
好きではないのも大きな理由なのだろうが、
何だかその番組を見ていると
とても不快な気分になってきたので
タブレット端末で見てもらうよう妻に依頼した。
そうして穏やかな気持ちで調理をし始めたのだが、
私の中で一つの疑問が生じた。
なぜ彼らの意見を聞くことに
私は嫌悪感を覚えたのであろうか。
私は一般的に見れば読書をするほうである。
だが、これらは全て筆者の方の感想を含む
読み物である。
もちろんその中に書かれた内容には
根拠も示された情報も含まれるのだが、
書籍や記事にした時点で筆者の意見は必ず
含まれてしまうものである。
こうして私が書いているこの記事も
まさに私の感想を書いているにすぎない。
もし私が人の感想や意見を聞くことが
不愉快ならば、本の内容も
受け入れがたいものになるだろう。
しかし、実際には私はそれらを自らの意思で
喜んで見ている。
この違いは一体何なのだろうか。
そう考えた時に一つの答えに行きついた。
誰が発信しているかわかっているか否かが
大きな差につながるのではないか。
私は本を買ったり借りたりするときには
必ず末尾に書かれた筆者のプロフィールを
見るようにしている。
その人がどのようなバックグランドを持って、
どのような立場で書くのかを知って読まないと、
本当に言いたいことが読み取れない気がするからである。
これはSNSやnoteでも同じで、
私はフォローしている方のプロフィールページを
一度は必ず目を通している。
よくSNSの世界では”何を”言うかよりも
”誰が”言うかが重要であると言われるが、
私はまさに”誰が”言うかに拘っているということである。
だが、冷静になって考えてみると
これはオカシイ話でもある。
発信された内容とその人のバックグランドは
直接的な関係がないからである。
誰が言ったのであろうとも、
その意見が自分に合うものならば受け入れればいいし、
逆に合わないのであれば咀嚼したり拒否したりすればいい。
とてもシンプルなことなのだ。
にもかかわらず私は誰がそれを言ったのかに
こだわってしまい、
仮にその人が信用に足る人だと判断したならば、
自分の意見と明らかに異なっていても
その意見を無理やりに受け入れようとすらしてしまう。
これはまさにハロー効果に惑わされていると
いうことではないだろうか。
ハロー効果については過去に別の記事で紹介したので
ぜひこちらの記事も参照してほしいのだが、
この記事の中でも私は
自分が思わぬところでハロー効果に
惑わされていることに気付き、
それに惑わされないようにしようと決意して
記事を結んでいた。
この記事を書いてからしばらくは意識して
「これはもしかするとハロー効果に惑わされていないか」と
考えていたのであろうが、
私達の生活の中にはあまりに多くのハロー効果が
存在しているし、
子供の頃から刷り込まれ続けてきた感覚を
簡単に手放すことは難しい。
むしろハロー効果に抗うのではなく、
いかにハロー効果と共存しながら
自分の意見が極度にゆがめられないように
気を付けるぐらいの方が正しいのかもしれない。
ある意味で、今回妻が見ていた番組で私が感じた感想は
純粋にハロー効果を抜きにした私の感想なのだ。
そう考えると私にできる一つのアクションは
本を買うとき、そして読み始めるときに
筆者のプロフィールを見ないようにすることである。
あえてハロー効果というバイアスを封じることで
その書籍に書かれた内容を純粋にニュートラルな目で
読むことができるだろう。
なかなか難しいことではあるが、
こうして少しずつハロー効果の呪縛から
自分を解放できる日を近づけていきたいと思う。