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ノーマライゼーションって難しい
何だか前にも同じようなことを
記事に書いたような気もする。
毎日更新をしているとこんな日も
時々あるものだが、
最近そんなことも気にしなくなってきた。
前回書いた時よりも少しだけ捉え方や
感じ方が変わっているかもしれないと
思うからである。
というわけで過去に書いた気がする
テーマの記事を今日も書こうと思う。
先日仕事帰りで電車に乗っていた時のこと。
座席に座って本を読んでいると
大きな駅で多くの人が乗ってきた。
私は4人が向かい合う席の窓側に座っており、
席を譲るべき対象の人がいないかを見てみると、
高齢者の方や妊婦の方は見当たらなかった。
なので、視線を本に落とし再び読み始めた。
そうして数分ほどしたときだろうか。
私の隣に座っていた女性がふいに席を立ち、
「どうぞ」と誰かに席を譲り出した。
私が見た時には特に対象の人はいないように
見えたのだが、見落としたのだろうか。
そう思い視線を上げると抱っこ紐で
子供を抱っこしたお母さんがそこにいた。
私が見た時には後ろを向いていたので
完全に見落としていたらしい。
ところが、そのお母さんは
「いえ、大丈夫です。すぐに降りますので」と
そのオファーを断った。
そこで席を譲った女性が再び座るのであれば
何ら問題なかったのだが、
その女性も席を譲って断られたのが気まずったのか
その場からいなくなってしまったのだ。
満員というほどではないものの、
そこそこ混雑した電車の中で私の横だけが
空席の状態となった。
その前に立っている抱っこ紐のお母さんは
そのまま立ち続けている。
何だかこちらまで気まずくなる状況である。
しかし、お母さんの言葉からするならば
すぐに降りるはずなので、
この状態もそれほど長くは続かないだろう。
そう思いながら再び本に視線を落としたのだが、
駅を過ぎれど過ぎれどそのお母さんは
降りる様子はなく、立ち続けていたのだ。
そして、私が降りる駅になってようやく
そのお母さんは降りたのである。
隣に座っていた女性が席を譲ったのが
約20分ほど前だったので、
その間ずっと私の隣は空席のままであった。
もちろんその間にも人の乗り降りはあったのだが、
空席の前に立つ子供を抱っこしたお母さんを見て、
その席に座ろうという人が現れなかったのである。
私はこの状況にモヤモヤというか妙な感覚を
ずっと感じていた。
席を譲られた時に素直にお母さんが座っていれば
皆がハッピーになったのかもしれないが、
抱っこ紐で子供を抱っこしているので
隣や前の席の人に子供の足が当たったりするのを
気にして座るのを遠慮していたのかもしれない。
もしそうであるならば、私も隣の女性と一緒に
席を立った方が良かったのだろうか。
そんなことを考え始めてしまうと
何とも言えない感情になった。
席を譲られてもそれを素直に受け入れるのは
何となく心理的な抵抗があるのも理解できる。
私も過去に子供を抱っこしている状況で
席を譲られて、何だか申し訳ない気がしたことが
何度もあるからである。
なので、子供たちが小さい頃に電車に乗ると
心の中では「お願いだから席を譲らないでくれ」と
思っていた。
もしかするとあのお母さんも同じような気持ちで
いたとするならば、
あえてスルーすることも優しさなのかもしれない。
子供の頃に道徳の授業で
ノーマライゼーションという言葉を習った。
Googleで調べてみると、この言葉の定義は
下記の内容で上位表示された。
英語では「normalization」と表記され、日本語では「標準化」「正常化」と訳されます。 社会的弱者に変化を求めるのではなく、障害者も高齢者も社会的な役割を当たり前に担えるよう、社会のあり方そのものに変容を求めるのが「ノーマライゼーション」です。
私が子供の頃に習った際にも
障がい者の方を特別に扱うのではなく、
健常者と何ら変わらないように扱い、
お互いに役割を担うようなイメージだった。
あのお母さんが座席に座らなかった理由が
私が想像した通りであるならば、
お母さんは子供を抱っこしていることで
自分を特別視しないでほしいと考えていることになり、
まさにノーマライゼーションを望んでいたことになる。
このような場合、どうすれば一番の解決になるのか
明確なアイデアがあるわけではないが、
その人を見て、その人がノーマライゼーションを望む人か
そうでないかを判別できれば
譲る側も悩まずに済むのかもしれない。
いっそノーマライゼーション車両があれば、
一見席を譲られる対象に見えながらも
席を譲られたくない方が気を遣わずに
電車に乗ることができるのではないだろうか。
そんなことを思いながら駅からの道を
とぼとぼ歩く私であった。
ちなみに白い棒を持った視覚障害者の方に
過去に駅で案内しようかと声をかけたことがあるのだが、
その方にも丁重に断られたことがある。
もしかすると、この方もノーマライゼーションを
求める方だったのかもしれない。
善意って難しいものである。