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『文』『詩』

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思ったこと感じたことを書き殴ったような文。 共感やこんな感情もあるのか、をコンセプトに。 不定期更新。
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#エッセイ

掌編小説風日記【海老】

私が食べられないものの一つ。 それは海老。 茹でると赤く色付いて、調理法によっては色々な歯触りが楽しめる。 あの海老。 嫌いで食べられないわけじゃない。 むしろ大好きで。大好きで、大好きで。 食べ過ぎてアレルギーになった。 さっくさくになったパン粉をまとうエビフライも、魚のすり身とあらく潰した海老の二つの食感が楽しめる海老しんじょも、パラパラとしたお米の中に潜んでいる小海老探しが楽しい海老チャーハンも、マヨネーズのまろやかさと大きな海老にテンションが上がってしまうエビマヨ

文【鉛筆のような人生】

生きるために文章を綴っているけれど。 綴れば綴るほど、私の命が削れていく。 売れる文章を書かなければ、生活だって出来なくなる。 あと一歩。 前に踏み出せたら。 と考えてみても、何処まで歩けば、その一歩になるのだろう。 矛盾している、私の生きる術。 鉛筆のような人生。 これだけ生きても、芯の色はまだまだ薄く。 消しゴムで消されてしまうような。 周りが暗すぎて、自分の文章さえも見えない。 私の残りの鉛筆は、あとどれくらい綴れるのだろう。

文【私の大切な、私自身】

私の内なる闇の、仄暗い部分を、引きずり出して光の下に晒したい。 だけれど、それを見たいと思う人は稀だろう。 私だって他人のそういう部分を見たら、一歩引いてしまうかも知れない。 なのに、最近では小説よりも、そういった醜いような汚らしい部分を書きたい欲が、どうにも治まらないで困っている。 私の、生き物の心情を書きたいという、作品自体のコンセプトには当てはまるが。 それを小説として整理し、推敲し、なんとか読める形にした上で提供しないというのは。 どうにも不誠実な気がするのだ。

文【私はいる】

自由に書くことの何が悪いのか。 知識だけあってもそれを生かせなければ宝の持ち腐れではないか。 そこに自分がいなければ 私が書く意味は無いのではないか。 難しいことは考えず ただただ文字を羅列したい。 そんな心の欲求を吐き出し 電子の海に晒しても良いじゃないか。 感情のままに書き続け 書いて書いて書いた先に 私はいるのだから。 私は私自身を 暴き晒しひん剥いて 自分の知らない触れたことのない場所まで 書いてみたい。 これが私だと 受け入れなくていい。 理解もし

文【しがない物書きは答えを持たない】

私はしがない物書きである。 毎日書き続けてはいるが、これといった目標もなく、ただただ書いているだけの物書きだ。 何故、書き続けるのか。 それは私自身が私の物語を読みたかったからである。 しかしながら、現在の想いは少しずつだが横に逸れつつあり、私自身も困惑している。 売れたいという欲もなければ、生涯の仕事にしたいとも思わない。 なのに何故か、書き続けてしまう。 当初の読みたい欲も薄れてきているにも関わらず、私は私の文章を、音を探し続けている。 「苦しいなら書くのを辞め