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あなたの物語、勝手に鑑定してます。

僕は最近、天才A教授の本にはまっている。『生の現場の「語り」と動機の詩学』という現実に存在している本である。

「名前を伏せているのに書名を伏せないのでは、意味がないのではないか」

あなたはそうお感じになるかもしれない。しかしこれは、私の書くものに登場する不名誉を尊敬する恩師に着せたくないないという、私なりの配慮なのである。


A教授は十四歳の時にこんな命題に到達した。

「時間とは生命の別称である」

なるほど、天才である。

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しかしその後、家業が倒産し大学へ進学できなくなってしまわれた。それでも残された喫茶店を切り盛りして、数千万円の借金を返済してしまうのだ。

「ねぇ、Aさん。ドイツの大学では学費が無料なのよ」

喫茶店の常連だった友人にそう助言してもらい渡独。しかし滞在中にベルリンの壁が崩壊し、再び日本に戻らざるを得なくなる。ちなみにドイツでは学位を取ることができたし、翻訳書を出して相当売れ、超美人な外国人女性とも結婚しているのだ。

(ちなみにこれらの話はA先生の著書の前書きに述べられている)

写真を見せていただいたのだけれど、今の感覚でも超がつくほどのセクシー美女であった。私があまりに写真をガン見したものだから、A教授がアルバムをぴしゃりと閉めてしまうほどの美女なのであった。羨ましい、が、離婚してしまう。

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そして、奇妙な経歴になったものだから500社の就職試験に落ちることになる。なんとか東北の環境ビジネスに携わるけれども、そこは東日本大震災の被災地、福島第一原発からすぐの場所だった。当然、職を追われることになるが、博士号を取得していたため、現職に就かれた。


「ベルリンの壁の崩壊。東日本大震災。実は、9.11も目の前で見たんだよ」
「不思議なことだけれど、私がいるところ必ず天災が起こるんだ」

「そして導かれるように浜松に来た」
「君との出会いも運命だ。よろしく」

天才とはいつも背筋をぞっとさせる。

これはフィクションではない。ノンフィクションなのである。

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前置きが長くなってしまったけれど、語らせていただきたいのは天災、いや天才A教授の書籍から私が考察したことなのであります。

ポール・リクールの「物語的自己同一性」という言葉がその書籍には踊っていた。

私たちはある種の物語を社会から押し付けられている。

「お前は奴隷だ」
「お前は機械だ」
「お前はひとりぼっちだ」

なんともなく身に覚えがある話ではある。だが、こんな押し付けられた物語ではなく、自分自身に流れる本来の物語というものがある。人は対話を通してそれに気づいてゆく。物語的自己同一性とはそうしたものだ、と展開されていた。

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僕はA教授から、

「時代の節目に早稲田や慶應ができたように、この変わり目に早稲田・慶応のような新しい学び場をつくるように」

と言っていただいている。

そんなわけで確かに可愛がってもらっている。可愛がってもらっている・・・のだけれど、誘われて何度も研究室に伺い、でも資金難から大学院受験を思いとどまり、それでも励ましてもらって受験した去年の大学院入試では不合格だった。こんな風に天才という人種はまったくもって難しいものである。

申し訳ない。新しい時代の教育というものにはある程度の目処がたっているという話をしたいのだ。

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これまでに、超名著『most likely to succeed』から、「新時代の教育とは答えを記憶させるものではなく、会話を促進させるものになる」という一つの示唆を得ていた。

だが困ったのは、どうやったらその”会話を手助けする教育”が可能になるか、だ。

「答えではなく、問いを投げかける教育になればいいのか?」
「科目を与えるのではなく、学ぶ場を与えればいいのか?」

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("most likely to succeed"より)

いろいろ考えはしたが、これといった決定打に欠けていた。

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「人はなぜ会話を交わすのか?」

これに対して大きな手がかりをくれたのが、A教授の書籍だった。

例えばである。突然訳のわからない例を出して申し訳ないのだけれど、僕は残念ながら低所得者である。残念である、非常に残念である。自慢ではないけれど、前著の自己紹介で述べさせていただいたように、有り金が1000円以下になってしまうことが未だままある。だからクレジットなど毎月止められるし、止められたら慌ててお月謝を請求して支払いをする自転車操業である。

先の新年会では、かかった費用が5000円のところ、有り金が5500円だった。

「お前、7000円になってたらどうしただ?」
「あぁだこうだ言って、5000円で済ましてもらう。酒飲んでないとかな」

「つか銀行くらい行ってこいよ」
「銀行預金と合わせて5500円だ」

「病気になったらどうするだ?」
「病気にはかからん」

「お前もう、払わんでいいよ。怖いだろ?」
「いや、払う。いつもこれだから怖くはないな」

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こんな調子なわけだけど、これは新年会だからいいのである。

何が困るかと言えば、一人でわびしくしている時、徐々に金がなくなり1000円を切るときだ。ちなみに1000円以上あれば、それほど焦りはしない。そんな時にあおり運転にでも会おうものなら、あらん限りの眼力を使ってバックミラーからガンを飛ばしてしまうけれども。自分でやっておきながら凹むのでやめておきたいと切に思っているのである。

ただしである。こんな寂しい私であるのだけれど、もしここで植木等を思い出すことができたらどうなるのか、考えていただきたいと思う。

「金のない奴は俺んとこへこい。俺もないけど心配するな♪」
(作詞:青島幸男先生)

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これだけで孫悟空のごとく、Cha-La Head-Cha-Laになれるのである。
ちなみに寅さんでも可能だ。

これはいったい、どういうことなのだろうか。

私は思うのだ。

物語というものは、人を孤独にしないのだと。

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前著にも登場していただいた、ヤンキー起業家の望月徹さんに教えてもらったことがある。

「松井さん、僕、小説もよく書くんですけど、事業プランも小説みたいにしてるんですよ」

普通、事業プランってこんな風に作る。

「今年度売上10%アップ」
「◯◯の資格取得者〇人増加」
「顧客〇〇人獲得」

だけど実際の経営ってものでは、悪いことも絶対に起きる。それなのに、どの事業プラン作成の教科書を見ても、上のような強気の目標ばかり書くよう教えていて、悪くなりそうなことをあえて考えさせるようなことはしていない。そもそも悪いことを予想するなんて、鬱になる以外の何も生み出しそうにないからだろう。

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しかしこれ、望月さんの場合は上手くやってしまう。物語を創るのである。すると何が違うか? 物語だから主人公を苦しめさせなければいけない。

「この時、こんなヤバイことが起こったら面白い」
「こんな危険なやつと出会うかもしれない。最高だな!」

小説風に事業プランを展望するのだ。これが望月流の”計画”なのである。

「え?悪いこと考えるのなんて普通じゃないの?」

鋭敏なあなた様ならば、そう思うかもしれない。ならばもし貴殿が志望校を受験する場合、どうプランを作るのか考えてみていただきたい。

「〇〇の問題集をこなす」
「〇〇を覚える」
「テストの点数〇〇点アップ」

となると思うのだ。

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しかし受験では悪いことも絶対に起きる。しかしそれは通常、プランに入れない。

だが、悪いことを積極的に考えられるかどうか。それが望月流の革新性なのである。そもそも悪いことを何も考えていないプランなど、単なる能天気なフィクションに過ぎないだろう。

目に見えているリアルなど、単なる妄想に過ぎないのだ。しかし現実をファンタジーに変換してしまえば、フィクションの方がリアルに移り変わる。痛みがチャレンジに変転する。そして少年漫画の主人公のように、危機に対して燃え上がって立ち向かえるのだ。

ミルトン・エリクソンなら、この手法を「自らを外在化させている」と表現するかもしれない。自分自身を異世界で生きる他者としている、と。自身を異世界に投影し観察することで、孤独から抜け出しているのだと。逆に異世界の自分自身に励ましてもらうこともある。その時、自分と自分との会話が可能になり、物語的自己同一性の形成が進むことになる。

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これだけではない。

「人を見る時でも、物語の登場人物だったらどんなキャラなのか考えてみる」

望月さんはこんな風に従業員らを観察しているのだという。

「何の話?」

と思われるかもしれない。

例えば許せない人がいるとする。彼がどうするのかと言えば、

「あいつ、ワンピースのキャラだったら◯◯みたいな感じじゃない?」
「あの濃いキャラ、物語の中の敵だとしたらイイ仕事するな!」

と想像してみるのだ。すると愛着も湧いてくるし、付き合い方も見えてくる。自分の心からヤバい奴を抹殺するのではなくって、ヤバい奴らをも自分の世界を構成する”いいキャラ”として受けとめるのだ。

マジ天才ちゃうかな、この人なぁ。

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A教授や望月さんの話を聞いて思ったことがある。

「人の物語を読み取れないで、僕は人を見たことになるのだろうか」

ということだ。

・あそこの彼女のキャラはどんなキャラなのか。
・これから進んでゆく彼の物語はどんな物語なのだろうか。

こんなことを読み取れないのだとしたら、私は彼女らを観察したとは言えない。

人の物語を捉えられない。それは、僕が僕の世界から彼らを抹殺してしまっていることを意味する。自分自身のことでも同じだ。自分の物語を自分自身で聞き取れないということは、自身を自身の世界から抹殺してしまっているということだ。自分を無視してしまっている。それでは孤独に陥り、会話ができなくなってしまうのも当然だ。

そう、

リアルなどフィクションにすぎず、フィクションこそ、リアルよりリアル。

現実をファンタジーに変換しなければ。
我らが孤独の罠から飛び立ち、会話を交わしはじめるために。

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お読みくださいまして、誠にありがとうございます!
めっちゃ嬉しいです😃

起業家研究所・学習塾omiiko 代表 松井勇人(まつい はやと)

下のリンクの書籍出させていただきました。
ご感想いただけましたら、この上ない幸いです😃


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Hayato  Matsui『逆転人生』共著者
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