僕たちはどう死ぬか。

エクステンションとインテンション

我が母校の立命館大学には、「エクステンションセンター」という、資格学校と連携したサービスがある。TACだったか大原簿記だったかの授業を安く受けられるのである。なかなかお得なサービスではある。

そう、勉強をしたい人間にとっては。

僕自身はカナダへ留学しようとした時に、TOEFLの講座を強制的に受けさせられたのであった。TACとか大原だからいい授業、というわけではなくって、専門的な知識習得だものだから先生によって当たりもハズレもある。

教材は割とセコいプリンターで印刷したものだった。その辺は格安だから仕方ない。ちなみにカナダ留学の方はというと、例によってなんにも事務所や先生らの言うことを聞かないものだから、何度も呼び出しを食らって「お前はダメだ」とおじゃんになってしまったのだった。

思えば、元大使館職員のカナダ人の国際センター長と大喧嘩をしたあれが、外国人と本気で喧嘩をした初めての経験だった。

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次は韓国へ卒業旅行に行ったときのことだ。韓国のヤンキーとガンのくれあいをするはめになったのである。奴らの仲間が集まってきて形勢が不利になったら、速攻で逃げたわけなのだ。俺はこの時ほど陸上部で良かったと思ったことはない。

断っておくが、ガンをくれてきたからくれ返しただけなのである。ちなみに日本では見たことがないような、何か無表情な、、、そう、コンピューターのようなガンの付け方をされて正直すげぇ怖かった。

「これがワールドクラスか」

と。

この話は地元のヤンキーにウケるのである。流石はヤンキーだけあって上昇志向が強い。なんというか、若さゆえの過ちというものかもしれない。認めたくないものだ。

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次はドイツに渡ったときの話だ。タクシーの運転手のテンションが異常で、道ゆく女の人に(おそらく)卑猥な言葉を投げまくっていたら、道すがらのドイツ人らにキレられた。2メーターくらいの大男に取り囲まれて、車のボディを外からガンガン殴られたのである。言っておくが、卑猥な言葉を投げまくったのは、うちらではなく運転手なのだ。

しかし流石はドイツ車、そんな進撃の巨人たちの攻撃をすべて跳ね返してくれる。俺は調査兵団でもドイツ車を採用すべきだと割合と真剣に思った。言っておくが、これに関しては俺たちは完全無罪なのだ。ドイツ人が起こしたドイツ人の争いが、いつの間にか外国人の悪者のせいになっている。俺はここに世界大戦の縮図を見た。

ドイツでは車で逃げた。もはや太っていたので車でなければやられていただろう。ちなみにベンツで逃げた。「スズキが売れる国は安全なのかもしれない」。俺たちは逃げながら、そう故郷に思いを馳せた。だから俺は世界でスズキが売れる日を夢見ている。

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次は中国人のコミュニティーで飯を食っている時だ。

「ここに来たのだから、中国語を話せ」

とからまれたのである。だが俺はここぞとばかりに「イーガーコーテー・ソーハンイー」と王将で覚えた中国語を披露したのだ。ちなみに意味は「餃子一皿、チャーハン一つ」となる。それからである。彼らとは本当に打ち解けて楽しく過ごすことができた。さすが王将。世界を一つにする真の王にふさわしい名だ。

次は静岡のインド人の店で店主に「オマエ、よそ者」と言われた時のことだ。故郷静岡でインド人からよそ者扱いされる筋合いはない。

「あのなぁ、カタコトで『オマエ、よそ者』とか言ってんじゃねぇよ」とキレてやったら、逆に仲良くなれた。本当のことを言うべき人物というのは確かにいるものなのだ。

そして香港では、日本人と大喧嘩した。

しかしである。これらはすべて非暴力不服従で行われたことを付け加えねばなるまい。

サティヤーグラハ、苦楽は同一。俺はここで、人類皆兄弟という事実を伝えたかったのである。

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この話をしたいのではなかった。

エクステンションとインテンション


母校のエクステンションセンターの話に戻させてもらうけれど、エクステンションという言葉はextentionと書く。「拡張」とか「延長」といったような意味で、まつ毛のエクステンションを想像していただけると分かりやすい。

私を起業家研究へと導いてくれた田井修二教授とエクテンの話をしたことがあった。私は起業家論を学びたくはなく、組織論を学びたかったのだ。だが、田井教授に無理やりやれと言われたのでやったのである。もちろん今は本気で感謝している。

「エクステンションセンターとか言ってるけどな、エクステンションよりインテンションの方が大事じゃないのか?」

そんなことをおっしゃっていた。インテンションとはintentionと綴り、「意図」とか「意思」のことだ。ちなみに接頭辞のex-が「外に」といった意味であるのに対し、in-は「内に」と対の意味になっている。

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メディア学者のマーシャル・マクルーハンはその著書"understandhing media"で、「メディアとはすべて、人の感覚器官の延長(extention)で、強さと速さとを人に与える」「逆に言えば、強さと速さを与えない商品など、見向きもされない」と語る。だから現代文明の象徴であるメディアとは、戦争とか闘争とかを類推させやすい。

言ってみれば、メディアは武器なのである。

ちなみにマクルーハンはメディアを「自らの外にあるものすべて」といったイメージで捉えているようで、一般的に考えられているメディア(テレビとか新聞とか)以上の広い意味で使われている。

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マルクスも、「豊かさとは良いモノを身の回りにたくさん置くこと」だと語った。

しかし、田井先生は違う。

「エクステンションよりもインテンション」

だと話してくれたのである。

「全てのメディアは人にパワーとスピードを与える武器である」
「その結果として何が起こるのかといえば、分断と死刑執行の一時猶予なのだ」

マクルーハンはこう言うが、自らの外側のものを欲すれば、争いが起こらざるを得ない。ならば、どうしたらインテンションを得られるのか。外を動かすのではなく、内を動かすには。

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「なにが残るかよりも、なにを残せるのか」


私が崇拝するアーティスト、遥奈さんはそう歌ってくれる。

私たちは生きようとしてきた。生きようとしてしまったから、「なにを手に入れるのか」とか、「どれだけ集めるか」という「外側」を動かすことばかり躍起になってしまったのだ。

しかしである。老い、死ぬことを思えばどうか。

なにを残せるのか、を志向できる。

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例えば、私は大学はもうダメだと思っている。

ブログで月に500万円を稼ぐブロガーのマナブさんは、法政大学の理系学部出身であるのだが、「技術的なものを伸ばすのは独学でしかない」と語る。

「大学では教授がだらだら話しているだけで、技術を学べなかった」

『TECH::EXPERT』を創業した「まこなり社長」も青山学院の理工学部出身だが同意見。メンタリストDaigoの弟で、月商7億円のD-laboのアプリを制作した松丸慧吾さんもそうだ。また、“most likely to succeed”を執筆したトニー・ワグナーは、ハーバードやスタンフォードであってすら同じだと言う。

「理系学部は実践的、理系の学生を増やそう」とする話をよく耳にするが、全くの検討外れだ。当然、文系のほとんども役に立たないのであるが。

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「研究はあくまで研究であって、実社会の役に立つものであってはいけないんだよ」

少し研究をかじったものなら、こんな意見をしばし耳にしたことがあるはずだ。

クソでしかない。

こんな状況だから、私は「大学から知識が逃げ出した」と表現する。

しかし最近そうではないと思ったのだ。

さまざまな罵詈雑言を述べてきたが、私は大学が大好きである。すまぬ。素晴らしい知識の宝庫でもあるからだ。しかし、もうこれからの時代において役に立たないと言っているだけなのだ。

巷では大学改革が叫ばれて久しいが、私は大学改革をする必要はないと思っている。

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そうでなく、大学がどう死ぬか、大学をどう殺すのか、を考えて欲しい。すると大学に必要なことを考え無理な延命をするのではなく、素晴らしい「大学」の智慧のうち、なにをどう残すのかを考えられるからだ。

そうせねば大学の資産が歴史的に切れてしまう。死を意識したとき、初めて繋げることができるのだ。生を意識してしまうと、つながってゆけないのだ。

「我々は不死の存在であって、我々はいつか、あらゆることを覚え、あらゆることがわかるようになると信じている」

ボルヘスの『伝奇集』にそうあった。

我らはそれゆえ、全てをため込もうとしてきた。「残すこと」を忘れ、「残ること」のみを考えてきてしまった。自分の子供たちの資産を前借りして手に入れることにすら、躍起になってしまったのだ。

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人は奇妙な思考をする侵略者であってはならない。

我らは死を志向すべきなのだ。

「なにが残るかよりも、なにを残せるのか」

切れるのではなく、つながりあう、、、死を志向すべきなのだ。

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起業家研究所・学習塾omiiko 代表 松井勇人(まつい はやと)

下のリンクの書籍出させていただきました。
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