書籍『自閉症は津軽弁を話さない』から、新世界を見る
自閉症は津軽弁を話さない
しばらく前、新聞の読書欄に『自閉症は津軽弁を話さない』という刺激的なタイトルの書籍のレビューがあった。昨日ついに購入して一気読みしてしまった。
自閉症の方は方言を話さず、NHKのアナウンサーのような共通語を使うのだという。
著者の松本敏治さんは、弘前大学の教授を務めた教育学博士で公認心理士。「自閉症の子どもって津軽弁しゃべんねっきゃ」という奥さんの一言から、10年に渡り自閉症と方言の関係を調査することとなった。
本書はその集大成である。
自閉症の方々への愛溢れる雰囲気が私にまで伝わってきて、ずっと優しい気持ちにしてもらえた。
先日、ルーシー・カールキン(Lucy Calkin)の新しい教育論に関する記事を読んだ。こんな内容である。
これをフェイスブックに書き込んだところ、ある高名な方からコメントをいただいた。そのとき私が『自閉症を・・・』の本について触れてしまったがために、いかんせん読まなくてはならないと思ったのである。
言葉は元来、歌であった。アリストテレスも『レトリック』で「法廷でなされるような相手を打ちのめすものなど、レトリックの本質ではない。レトリックとは、共感を創起するリズム。すなわちアートだ」と語る。
私自身も学習塾で教えていて、字面と声とを一致させることで効果が上がっている。
文字を音声に翻訳する、とは何を意味するのか。『自閉症は・・・』の書籍に、さらなる突破口がある気がした。
内容は本当に衝撃的だった。
ASDの方は、身体性が極めて弱い。書籍では「共通感覚」という言葉が用いられていたけれど、指差しなどをして他者と同じものを見ることが難しいのだ。
声もまた指差しに似ている。後にも先にもない「その場その場」にしかないものを共有する手段である。最近の哲学では「いまここ」と言うそうだが、そんな「いまここ」に、発生しては消滅していくものが「共通感覚」であり、それを想像できない。だから、空気を読むことが難しいのだ。
怪しい天才、大盛堂書店の団長
今年の1月、私の大先輩の豊さんに紹介してもらって、渋谷の大盛堂書店でトークライブをさせていただいた。その時の司会者が「団長」と言われる謎の長髪の男だったのだけれど、団長は恐るべきことにロシア語、ドイツ語、フランス語、スペイン語、英語などなど、多国語を自由に操り、原語で文学を研究している。
胸まで伸びる彼の長髪は地毛で、電車に乗るときもコンビニへ買い物へ行く時も、黒い帽子とサングラスをした極めて怪しい格好のまま出かけるそうだ。
そちらは兎も角、私は団長に聞いたのだった。
「どうやってそんなに沢山の言語を覚えたんですか?」
「覚え方は全部一緒なんです」
「もちろんしっかり勉強もするんですが、一番重要なのは・・・」
「はい」
「雰囲気を浴びることなんです」
「雰囲気?」
「ええ」
「たとえばフランスへ行って、フランス語を喋る人たちと一緒にいるんです」
「そんなのでいいんですか?」
「そうなんです」
「しかも、ただ一緒にいるんです」
「しゃべらなきゃいけない、とかは関係なく」
「英語を喋れると、新幹線などで英語圏の方から『あいつ英語分かってる』って目線を投げられることがあるんです」
「あぁ、それ僕もあります」
「なるほど」
「そんな雰囲気が重要なんです」
「彼らとは、別段なにもコミュニケーションを取らなくてもいい」
「はぁ???」
「エレベーターなんかに一緒に乗って、外国語を喋っている人たち、日常的にその言語を使っている人たちと只一緒にいる」
「そうすると身につくんですよ」
こんな不思議な話をしてくれた。
「教えよう」「教えてもらおう」という関係では、まったく効果がないそうである。自然に居てもらうことが重要なのだ。
思えば私が英語をできるようになったのも、大学院でディハーン先生にゲームをしてもらったことが切欠だった。ボードゲームを使った英語教育を研究しているディハーン先生は、自身も大のゲーム好き。やたらと生徒らを誘ってゲーム大会を開いてくれる。
そこで私は、英語のリズムを掴めたと思った。受験生の時には1日17時間、何年も勉強してもモノにならなかったものが、いつの間にかスッと頭に入るようになった。だから団長の言う事がよく分かった。
自然言語と学習言語
『自閉症は・・・』の書籍では、「自然言語」と「学習言語(表現する言葉)」という言葉を使っている。
「学習言語(表現する言葉)」とは、NHKのアナウンサーが使うような共通語である。相手との距離を取るときに使う言葉という意味だ。
そして「自然言語」とは、相手との距離を詰めるときに使う言葉。方言やオノマトペなどがそれに当たる。団長の言う「雰囲気」や、アリストテレスの言う「共感を創起するリズム」も自然言語だ。
人間関係の空気を読むためには、距離を詰めたり離したりして両者を使い分ける必要がある。学習言語(距離を取る言葉)は動画で学べるけれど、自然言語(距離を詰める言葉)はそうはいかない。自然言語を身につけるためには、共通感覚を掴まねばならないわけだ。
言葉にすらなっていない「いまここ」の共通感覚を掴めるかどうか。身体感覚をもって学び、人間関係を作らねば実践的な学びにはならない。私が40歳まで、どんなに頑張っても英語ができなかったのはそのためだろう。
ビジョナリー vs エフェクチュアル
今、エフェクチュエーションという起業理論を研究している。エフェクチュエーションは、「市場と人間関係は同義である」と教えている。そして驚くべきことだが、計画を毛嫌いする。計画的に行儀良くしていては、本当の関係性がつくれないからだ。
エフェクチュエーションの概念を作ったのは、インド系の女性研究者サラス・サラスバシー。彼女の著書では上記のように、「予測(計画)を重視するかどうか」「コントロールを重視するかどうか」を基準にし、エフェクチュエーションと従来の経営学との対置を図っている。
すると、経営学の4つの大枠が浮かび上がる。
1.計画
2.ビジョナリー
3.行き当たりばったり
4.エフェクチュアル(エフェクチュエーション的であること)
以下、少しだけ見ていきたいと思う。
1.計画
「計画」は左上の象限。正確に未来を予測しようとするが、実行力は弱い。上の図では「コントロールが弱い」象限に位置している。これは「自己」をコントロールする力の弱さだ。計画は計画倒れになることも多い。実行力が弱いのである。
そしてここで利用する言葉は、「学習言語」である。方言を使ってプランを策定する人間はいない。
2.ビジョナリー
「ビジョナリー」は右上の象限。価値ある未来に対して自らのビジョンをはっきりと持っていることである。これまでの経営学はこれを究極としていたわけだけれど、エフェクチュエーションはビジョナリーとも異なる。
ビジョンを語る人間がスマートな雰囲気であることからも分かる通り、ここで使われる言葉も学習言語である。
3.行き当たりばったり
「行き当たりばったり」は左下の象限。激変する環境にどれだけ迅速に適応するかが問題となる。しばし、エフェクチュエーションは行き当たりばったりと同一視されるけれど、対処療法の趣が強いこれとは大きく異なる。
使われる言葉は、無骨で格好悪い自然言語である。
4.エフェクチュアル(エフェクチュエーション的であること)
そして原典では「変遷」とされているけれど、「エフェクチュアル」な領域が右下の象限となる。「変遷」とされているのは、既にあるものを利用して共通の感覚を”作り出す”ことを意味しているからだ。それが人間関係となり、市場にもなる。
「人間関係を計画的に作る」という話には違和感がある。臨機応変に共通感覚を作って生まれるものだからである。「いまここ」に生じる感覚を共有することで、人間関係を作るのだ。
使用される言語は自然言語である。
すなわち、ビジョナリーが捉えるのは未来で、エフェクチュアルは「いまここ」に共通感覚を作り出すのだ。
これまでのマーケティングでは、無いものを揃えてから事業を始めたが、エフェクチュエーションでは、すでにあるものを活用して起業をする。予想や計画ではなく、共通感覚が重要となる。
エフェクチュアルの象限に関しては、少しだけ説明をさせていただきたいと思う。
田原真人と『新コモンズ論』
数週間前、田原真人さんから教えていただいたのだけれど、『新コモンズ論』という書籍がある。ちなみにコモンとは英語で、共通という意味。コモンズはその複数形である。
明確な目的がなくとも、「いまここ」にある共通感覚を共有すると、いつしかドラマが生じる。そこでは物語が求心力になり、人の生きる意味も生じる。偶発性がドラマを生み、歴史をつくり人を動かしてゆくのだ。
我らが師匠、橘川幸夫さんが若い頃の話をしてくれたことがある。大物漫画家の真崎・守さんに「あなた目つき悪いですね」と手紙を書いたところ、「飯でも食いに行こう」と返事をもらった。
目つきの悪さに何らかの共通感覚が偶然にあったのだろう。人間関係とか歴史というものは、意外にこんなところに潜んでいる。計画的に作られた人間関係など、どの伝記を読んでも出て来ることはない。共通感覚がつながり、星座のように物語をつくるのだ。
うちの学習塾に圧倒的に性格がいい生徒Aがいる。彼には、不登校の生徒Bと会ってもらっていた。元気になってもらいたかったからなのだけれど、生徒Bがどんどん元気になっていくと、生徒Aの成績も急激に伸びていった。彼の本当の力が学問にも影響したのだろう。学問もまた計画ではなく、関係性なのだ。
市場経済から共通経済へ
僕はそれから、この「共通感覚」という言葉にすっかりとはまってしまった。いかにも人間的でいいと思ったのだ。
マルクスは価値を、使用価値と交換価値に分けて考えた。例えばお母さんのご飯は使用価値の体系の中にあるもの。そして、お金は交換価値の体系の中にあるものだ。ちなみに彼は、「市場とは交換価値を付与するもの」だとしている。
いくら価値があっても、お母さんのご飯は使用価値体系の中にあるため高値では売れない。市場経済とはそうしたものだ。
今は交換価値主体の経済だけれど、エゴ剥き出しの殺伐としたものだ。共通感覚を伴った価値、すなわち使用価値が見直されねば、人は人として生きることはできず、永遠にカネの奴隷になる。
交換価値の限界が露呈した社会で、再び使用価値を見直さざるを得なくなるのではないか。市場ではなく、共通感覚を基盤とした「共通経済」なるものが出現するのではないか。
エフェクチュエーションが切り開く、人間関係こそを市場と捉える社会。それがどんな世界になるかを想像することは面白そうだ。
ただ言えるのは、これまでの常識が一切通用しないことである。
学習塾・起業家研究所omiiko 代表 松井勇人
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