100分で名著 ブルデュー『ディスタンクシオン』
「成績のいい生徒を連れてきてくれよ」
「そいつのノートって、びっしりと先生の話を書き込んであるだろ。20年もそうしてるもんだから、すげぇ知識を持ってんのさ」
「で、それって、金のためにやってると思う? 違うね。そのほうが楽だからそうしてるんだよ」
「家にいたいか金が欲しいかって言ったら、みんなたいてい家にいたいのさ」
Paul Claudel, Le soulier de satin, Day III, Scene ii
『ディスタンクシオン』はフランス語で、英訳するとdistinction(ディスティンクション・ 区別、差別の意)となる。これは中学校でも習う単語だ。ちなみにその『ディスティンクション』が、英書に翻訳されたときのタイトルである。
原著(英語版)の冒頭には、上のポール・クローデルの戯曲が引用されていた。罪と救済を描いた11時間にものぼるラブストーリーで、長すぎてなかなか上映する機会がないのだという。
「人はどう生きるのか」
これが本書全体を流れるテーマだ。この問いに対してあなたはどうお答えになるだろうか。
「良い大学、良い会社に入って生き抜こうと思う」
「自分の力で切り開けばいい」
「神のために」
「親の遺産があるから、働く必要などはない」
「働いたら負け」
最後の方はどうかと思うが、百人百様の生き方があるのは受け入れざるをえない。そして、ブルデューは決定論的な立場に立つ。すなわち、我々の生き方は、すでに決められていると言うのだ。
「そんなはずがあるわけないだろう!」
怒声すら聞こえてきそうである。
しかしブルデューはこう語る。
「あなた方は、自分の趣味嗜好や働き方を、自分自身で決めていると考えているかもしれない。しかしそんなあなた自身の趣味嗜好ですら、歴史や社会階級の網目の中で決められたものだ。我々はそれを見逃していた」
と。
東京大学に進学する生徒ら1世帯の平均年収は950万円。教育という一見開かれた場所ですら、上位校はエリートのための場所となっている。美術館に通うのも金持ちだけであるし、逆にセレブはワークマンに行ったことはないと思う。ユニクロはどうなのか、分からないけれど。
こんな風に、我らの生き様は知らぬ間に歴史や社会の網の目で決められているのだと、ブルデューは言う。
「そう言えば六本木ヒルズに住んでいる人って、スーパーの買い物袋下げて帰ってきたりするだかなぁ?」
僕は一年ほど前まで、このことが気になって仕方なかった。
そしてアラブの富豪と付き合っていた超絶美人のお姉さまに、こう教えていただいたのだ。
「ポーターサービス使ってると思うわよ」
「なる!」
と唸った。。。もはや俺の感覚では、食料品の買い物ですら想像できない。そんな階級がいるのである。
「ならばどうしたら、この俺さまでも六本木ヒルズに住めるのか」
と考えるのが俺的な思考になるのだけれど、ブルデューはそんな下世話なことを考えたりしないのだ。
・ハビトゥス
・界
・文化資本
こんな美しい術語を使って彼は思考を進めていく。個人の意思とか力とかではなく、何をするにしても社会的な意思が働いて個人があるのだということを強調している。
・美術館に行くにしても、金持ちしか行かない。
・労働者階級の子供は、学校でしっかりとノートをとるという文化資本を持っていない。
こんな具合だ。ちなみに某県立大学の学生もほとんどノートを取らないと指導教官が嘆いていた。
僕が興味深いと思ったのはこんな部分だ。
「学校教育とは、機会を均等にするためになされていると思われがちだが、実際は金持ちの真面目な”御子息さま”だけを高く評価し、彼らだけに教育の機会を与えているにすぎない」
こうしたことを言うから、ブルデューはとてつもない批判にさらされているわけだ。だけれども、ある種の真実を突いていることは認めざるを得ないし、新しい教育を考える際には必携の文献になるわけだ。
・ハビトゥス
・界
・文化資本
自分の趣味嗜好は、親や祖父母などの歴史的社会的な網目によってすでに決められている。これが先の術語「ハビトゥス」である。ラテン語だが、英訳するとhabit(ハビット:癖、習慣)、もしくはhabitat(ハビタット:生息地、住まい)となる。習慣が生きる場所を作るのである。
そしてそんなハビトゥスを持って、音楽界とか社会学界とか芸能界とかの「社”界”」に飛び込んでいく。さらにその「界」でもまた、歴史的文化的な網目によって我らを評価する基準が暗黙的に定められている。
どういうことか。
例えば僕らはよく、
「アイツが俺のことを評価しやがらないから、アイツが悪い」
と言うわけだけれど、そうではなく実はその”アイツ”の背後にある歴史的文化的な網目によって評価基準がすでに決められていて、僕はそれにしたがって低評価を下されているというのだ。
まぁ、言いたいことは分からないでもない。俺だって生徒らを怒るときには、歴史的文化的背景を元にキレているのである。
自分の趣味嗜好は、社会的文化的な網目によって規定されている。これがハビトゥスだった。
そして、自分の持っているハビトゥスが認められやすい「社”界”」があって、我々はそんな界に落ち着くことになる。故に東大生の親は東大生を産みやすいわけだ。これを文化的再生産と呼ぶそうである。
But one cannot fully understand cultural practices unless 'culture', in the restricted, normative sense of ordinary usage, is brought back into 'culture' in the anthropological sense, and the elaborated taste for the most refined objects is reconnected with the elementary taste for the flavours of food.
「社会的文化が人類学的文化に還元されるということを知らなければ、文化というものをしっかりと理解したことにはならない。上流階級の味覚は、その子供の味覚も上流階級のそれにするのだ」(私訳)
(こんなことを言っているが、ブルデューは階級社会に対する怒りから本書を執筆しているのである)
ちなみに、自分の持っているハビトゥスとはまったく違うものが認められるような「界」に行くとなると、これはとてつもなく苦労する羽目になる。
少し話が変わるけれど、私が東大の組織学会で発表したときに、こんな質問をいただいた。
「あなたの心理学的アプローチはよくわかる。それにしても、ついぞ不思議に思うのだ。社会というものは単なる個人の集積なのだろうか、と?」
「いい質問ですね!」 と言いたいのを我慢して、僕は先輩の社会学者、中溝一仁さんから聞いた話をさせてもらった。
「夏休み明けの最初の月曜日。その日が最も自殺率が高いのだそうです。各日にちが一定の自殺率を持っていて、社会はそれに対する施策を打つ必要があるといいます」
「社会学の祖、エミール・デュルケム的な考え方なのですが、社会は単なる個人の集積ではなく、一つの生命体のような独自の性格を持つようで、とても興味深いと思っています」
だからブルデューのような社会学的なアプローチというものは、非常に有用なのだ。
ただし、である。ここでブルデューに文句をつけてみようと思う。
同じ家庭で育ったとしても、兄弟でまったく性格が異なることは多々ある。
一人はチャランポラン、一人は凄くしっかりと勉強をする。
「なんでおんなじ家庭で育った兄弟なのに、こうも性格が違うんですかねえ?」
「そうだよ先生。全然違うからね。不思議だよ、まったくもう」
こんな話を親御さんとよくするのだ。
ブルデューのアプローチは興味深いが、社会的決定論ではこんな素朴な違いを説明できない。社会の網目と同様に、個人の気持ちの網も考えなければ。
その辺は国の偉い人ではなくって、僕ら草の根の教師の出番なのだろう。なんともありがたい話である。
お読みくださいまして、誠にありがとうございます!
めっちゃ嬉しいです😃
起業家研究所・学習塾omiiko 代表 松井勇人(まつい はやと)
下のリンクの書籍出させていただきました。
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