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海は必ず凪ぐ

ちょっと前まで、私は夢なんて持っていなかった。この歳で夢を語るなんて、バカげたことだと思っていた。そしてどうやって死にゆくか、いかにこの世に未練なく、きれいさっぱり自らの生きた恥ずかしい痕跡を消すか、そんなことばかり考えていた。
世の中は怖くて厳しいもので、生きることは辛く苦しいもの。他人は先ず警戒し、おそれ、避けるべきもの。そんな風に感じていた。
この世は限りなくグレーで、自分はその中で辛うじて生存を許されている存在、ぼんやりとだが、そんな気がしていた。

上手く行かないことがあれば、やっぱり自分はついていない人間なのだ、自分にはこういう運命が用意されているのだと思い込む。たまたま上手く行けばそれはまぐれで、いつまた上手く行かない運命のレールに引き戻されるかと恐れ慄く。自分のような者に、こんな良い運命が待ち受けている訳がないと頭から決めつけていた。ちっとも上手く行ったことを素直に喜べなかった。
また、上手く行くと他人の嫉妬の目を恐れ、その事実を隠そうとした。嬉しくても嬉しくないように装った。

今の私は真逆である。この歳だけど夢がいっぱいある。すぐに叶えられそうな夢もあるし、ちょっと頑張って叶えたい夢もある。夢の実現のために頑張ることは物凄く楽しみで、実現した時の自分はどんな気持ちでどんなことを思っているだろう、と思うとワクワクする。

この世の中は人との素晴らしい出会いにあふれている、と思っている。家族は勿論、職場の同僚、上司、お客様、道ですれ違う人々、どんな人との出会いも私にとっては大切だ。無駄な出会いなどない。
嫌な感情を呼び覚ましてくれる人もいれば、ほのぼのさせてくれる人、困惑させてくれる人、自分との価値観のあまりの違いに戸惑わされる人もいる。
どの出会いも、私の人生に必要だからそこにあるのだと思う。そしてその出会いを用意した運命と言うものの不思議さを、感慨深い気持ちで眺める。

私の人生には沢山の選択肢がある。以前はどの選択肢を取る「べき」か、どの選択肢を選ぶのが世間で言う「正解」かを最優先事項として掲げ、自分の思う「正解」に蓋をしてきた。あんまり長い間蓋をし続けたもので、私の思う「正解」はとうとう選択肢にあがらなくなった。
「べき」を外し、自分の中の「正解」に正面から目を向けた時はかなり怖かった。でもよくよく考えれば世間で言う「正解」なんて、自分を守ってくれるものでも自分の幸せを保証してくれるものでもなかった。だから潔く捨てることに決めた。
そしたらふんわり軽くなった。軽く選択肢を選べるようになった。
深刻に考えず、「ま、今はこれで良いんじゃね?失敗したらやり直せば良いや」と思うようにした。
すると妙な力みが抜け、ドンドン軽くなっていった。

軽くなると、色々楽しくなった。世の中、悪くないやんと思うようになった。良いことに目が向きだした。ついている、と思うことが増えた。幸せは探し求めるものではなく、そこにあることに気付くか気付かないかだけのことだ、とわかった。自分がふんわり軽いと、自動的にその幸せに気づくように出来ていることも。
幸せに気づくと、勝手に感謝の念がわいてくるようになった。「感謝しなきゃ」という張り切った、外面を気にした感覚ではない。胸の中に大きなコップがあって、そこが「気付いた幸せ」で満たされてくるとやがて感謝が溢れる、という言い方が感覚的に近いと思う。

こう言う風に勝手になっていったわけではない。素晴らしい人々との出会いがあり、私は今こういう風に考えることが出来るようになっている。
勿論、「わあ、どうしよう」と焦ったり、「えらい目にあってしまったなあ」と嘆いたり、「なんでやねん」と憤ることは今でもある。あるけれど、そこで「流されない」のだ。ああ、焦っているなあ、嘆いているなあ、憤っているなあ、と静かに私を見ている私が常にいる。その目はいつも温かい。
嵐に揉まれる時もあるけれど、必ず元の穏やかに凪いだ状態に戻る、と確信している私がいる。

自分を不幸にするのも、幸せにするのも自分なのだ、と思う。
そして、何をしようと考えようと私は自由なのだ、とも思う。
そんな風に考えられる今を幸せだと思っている。

そりゃいつかは死ぬだろう。でもその時私はきっと「素晴らしい人生だった」と思うに決まっている。





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