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不協和音

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エンジニアとライターが始めた共同執筆プロジェクトです。エッセイを軸に、自分の感じたこと、考えたことを発信したり、同じテーマで互いに呼応したりする作品を作っています。
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#自分

「私は最後、どのような人でありたいだろう」と考えることが、「私は今どうあるべきか」を決める

昔、友人が教えてくれたある言葉が好きで、ずっと覚えている。 私はある時から、死生観を持つようになり、その折りに友人が喋っていたからなおのこと覚えているのかもしれない。その友人は、思春期の真っ只中の多感な時期に父親を亡くし、母と一緒に生活している気が強い、やんちゃな青年だった。彼からは、そんな大変な経験をしたなんて全く感じられないくらいに、いつも明るくて陽気で、ちょっとキザなそんないいやつだった。 最後に残るのは、「私がどのような人間であったか」であり、「私が何をしてきたか

自分の心を解き明かすための手がかり

論理は重要か、感情は重要か、そんな対立をよく見る。正直、答えは明らかにどちらも重要で、どちらも上手く使える方がいいに決まってる。でもなんでだろうか、いつも二項対立にして、論評が繰り広げられているようにも見える。 理由はいつも後付け、論拠もいつも後付けなのだ。自然科学のような絶対的真理を追い求める時以外は、観察のような事実から機能的に結論が見出されることはなく、ほとんどの場合は結論が決まっていて、それをサポートする理由や論拠が見出される。「〇〇すべきか?」という議論は、結論が

煩悩と悩みは、捉え方次第で

ある人に「山本さんって煩悩なさそうですよね」と言われた。煩悩ってなんだっけ?と調べてしまった。Weblio によると以下のようなものらしい。 物欲も性欲もあるから、通俗的な意味合いでは私も煩悩を持っている。が、迷いや苦しみの原因となる心の汚れは確かに少ないかもしれない。荒むことはあっても煩悩に苦しむことはあまりない。 でも、これは私の気質的な問題というよりも、自分の心のうちで煩悩のタネみたいなものをなるべく早い段階で解消してしまっているからでもあるのだ。「モヤッとするなぁ

無鉄砲な私と、堅実な私のはざまに

この2, 3年、なんというか自分の中で焦燥感が少し薄れてしまった感覚があり、20代前半に感じていたギラギラした前向きな気持ちを少し失っていた自分がいるように思う。それがどこからきていて、どうやったら次のステップに向いていけるのかをよく考える。 別に、仕事に対してモチベーションがなくなったわけでもなく、何か努力をサボっているわけでもなく、コミットが低くなったわけでもないのだが、昔そこにあった何か上昇志向にも近い、自分を駆り立てて強化していく「もっとできるようにならなきゃ」感が

今と未来のバランス感覚

と私は言った。私の目の前には、もう還暦を超えて仕事を引退したおじさんに。彼は、私と同じ出身地の大先輩。田町の地下にある、昔ながらといえば聞こえはいいが、少し古びた蕎麦屋で、日本酒を二人で飲みながら。 と彼は言った。私とは30近く離れているのに、同郷というのは不思議で距離感がない。初対面なのに、地元のお店の話や人の話をしているだけで、人生のバックグランドを共有できたような錯覚に陥ってしまう。 人生の刹那的な瞬間に違和感を感じるようになったのはいつからだろう、とふと考える。少

ことばにすると生み出されるもの、失われるもの

私は仕事柄、物事を言語化し表現し、誰かに伝えることをよく求められる。十分にできているかと言えばそんなことはないが、普段の仕事の影響で、日頃の些細な事項でもふと言語化して、自分の中で理解を促したり、客観的に物事を見つめられるようにしてしまう癖がある。 でもふと、立ち戻って、本当に言語化が必要なのか考えさせられるシーンが時々ある。 と自分の中で問いかけるのだ。この問いは面白いし深いと最近思って、よく考えている。 そもそも私たちはなぜ言語化していたのだろう? 言語化がもたら