今と未来のバランス感覚
と私は言った。私の目の前には、もう還暦を超えて仕事を引退したおじさんに。彼は、私と同じ出身地の大先輩。田町の地下にある、昔ながらといえば聞こえはいいが、少し古びた蕎麦屋で、日本酒を二人で飲みながら。
と彼は言った。私とは30近く離れているのに、同郷というのは不思議で距離感がない。初対面なのに、地元のお店の話や人の話をしているだけで、人生のバックグランドを共有できたような錯覚に陥ってしまう。
人生の刹那的な瞬間に違和感を感じるようになったのはいつからだろう、とふと考える。少なくとも、私が思い出せる範囲ではずっと「イマココ」の楽しさを受け入れられない自分がいたような気がする。
私には昔から夢があった。今は形を変えているけれど、大きな根本のビジョンは変わっていない。最初に夢に気付いたのは中学生の時だったが、その時から常に将来の自分から逆算して、その時取りうる自分の最適な選択肢を選びとることが自分の中での最重要なテーマだった。
このことを他人に話すと多くの人は、「すごいね」と言ってくれる。昔の自分も、もしかしたら今も、その賞賛に踊らされて、自分の今を将来のために投資し続けているような気がする。でも、歳をとり、大人になるにつれて、本当にそれでいいのか悩む瞬間も多くなる。
今を未来に投資するということは、私にとって多くの場合、今の楽しさよりも未来の楽しさを優先する、ということに直結する。例えば、自分が未来のために必要だと思う仕事や人間関係があったら、何よりも優先したい気持ちになるし、もっといえば、将来的に意味があるかもしれないものでも投資したい気持ちになってしまうのだ。
要するに、今を犠牲にしているとも言える。今まで、私はあまりそこに違和感を感じたことがなかった。昔は、3年くらい先を見て何かをするのが好きで、今はもっと先の10年くらい先を見るのが好きだ。そのために、自分が動けていると感じている瞬間に達成感を感じるし、生きている意味を感じる時もある。
でも、一方で、今を楽しんで生きている人に羨ましさを感じる時も大いにあることに最近気づいた。ある一点において、自分の時間を投資し、スキルを高めたり、人間関係を構築することは得意であっても、それ以外の領域においては無知なことの方がずっと多い。次第に、周りが楽しいと思うことに対して、あまり理解ができなくなっていったり、逆に自分の話が周りに通じなくなるジレンマを覚えるようになっていることに気づく。
弁明のために言っておくが、別に今がいいとか、未来がいいとか言ってるわけではない。言いたいのは、今まで未来に対して投資し続けてきたことを私は疑いもしながったが、最近今を楽しんでいる人たちがとても眩しく見えるし、魅力的であるなと感じることが増えたということだ。
今と未来をバランスさせることはとても難しく、私はまだ何も正解を見出せていない。つい、癖で何かの物事を決めるときに、今の楽しさよりも未来に対しての意義を優先してしまうことも多い。本当にそれは良いことなのだろうかと悩む。これも正解はない。
人生の先輩がいう、「刹那を楽しみながら、先も見据える」という生き方。これを本当に私はできるようになるのだろうか。未来を見据えてこのまま生きていった後に、残るものが本当にあるのだろうか。と考える。
どんなに考えても答えは出ない。でも、今やれることはある。まずは少しずつ刹那なものを楽しんでいくところから始めてみようかと思う。正直あまりグッとはこないが、食わず嫌いをしていても始まらない。自分の生き方や考え方に固執していても仕方ない。まずはやってみるところから、その先に自分の生き方をアップデートできるきっかけが見つかるかもしれないし。
刹那を楽しみながら、先を見据えて生きる。難しいけど、確かにあってそうなそんな挑戦をしたいと思わされた。
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