徒然日記2020.09.15
今日は午前中は在宅勤務で会議の日でした。昨晩の遅くに郵便受けをチェックしたら、下の子の幼稚園の合格通知があり、リビングの掲示板に貼り付けておいたら、朝寝ている時に上の子と妻が喜んでいる声が聞こえて、とても幸せな気持ちなりました。午前の会議を終えて、昼は冷凍チャーハン、たまに食べたくなります。美味しかった。その後、自宅を出て2件ほど取引先を訪問。移動中は決まって同僚などと電話をしていた。同期の仲の良い同僚が電話で依存してしまって申し訳ないなどと言っていたから、本当にお互い様で、こちらも助かっているということを伝えた。コロナ禍で社内ですら繋がりが希薄なのに、電話で繋がることはむしろとても重要に思える。帰宅後は腹ペコだったので、すぐに夕食にしてもらった。妻特製のそぼろ丼にやみつきキャベツなどをいただいた。美味しくて、ノンアルコールビールで流し込む。流し込むといつも書いているが、キチンと噛んでます(笑)ビールと共に食べる時、なんとなく流し込むと書いてしまう。癖です。その後、上の子の読み聞かせタイム、私が3話ほど読みました。今日の子どもたちは、なにか一段と素晴らしくて、とても可愛かった。
さて今日の一考であるが、私のとても薄い知識の中、河合隼雄の日本人論をベースに少しそのようなことを語ってみたいと思う。
日本人というのは集団を形成すると、必ず同調圧力が高まり、誰が指示したわけでもなく、ルールがあるわけでもないのに、同じような服装をして、同じようなことをしているという特徴があるような気がします。世間の目というのをすごい気にしていて、どんな服装かというのも、横並びになる傾向にあると思います。服装だけに限らず、細かいルールなどの暗黙知が集団の中で多数存在するのです。河合隼雄が日本人の本質は中空構造だと言いましたが、中心はわからず、そのルールを作っている主体というものはありません。誰が言ったかわからないのに、なぜかルールを守っているということが多々あります。だからとても厄介なのです。河合隼雄が中空構造の日本人論を語ってからだいぶ月日が経ちました。今の日本人はどうでしょうか?相変わらず集団の中での暗黙知は存在するような気がしますが、そもそもの集団のつながり自体が希薄になってきているように感じます。昔は地域社会、特にムラ社会がその集団であったわけですが、それが高度経済成長時代などは会社がその集団だったように思います。今日本人がその精神的支柱を置く集団というものは、会社でもなく、地域社会でもなく、家族でもなくなってしまっているとしたら、とても不安な方が多いのではないでしょうか?なにか大きな人生の試練があった時に、集団で痛みを受け止めて乗り越えてきたのに、その集団もなく、つながりが希薄な社会になってしまった日本。無縁社会というNHKの特集があったように記憶してますが、本当に縁が切れてしまっている人が多い気がします。SNSなどは繋がれるツールとして機能している反面、分断を増長しているような気さえするほどヘイトにまみれています。私が仏教の縁起の考えに惹かれるのは、このような縁が切れすぎる社会に嫌気がさしているからです。日本人の同調圧力や暗黙知、阿吽の呼吸などはマイナスの面もありますが、良い面もあります。一人一人が個性はありませんが、全体でうまく機能している。一人一人が全体の一部として重要な役割を担っている。なにか大きな外圧が加わった時に、全体で受け止めて圧力を逃す。だからとても外圧につよいのです。今、縁が切れすぎている日本人はとても弱いと思います。外圧が加わった時に一人で受け止めねばならず、簡単に折れてしまいます。社会のセーフティーネットという形で福祉に関わっている方は、頼りたくても頼れなくて辛い状況の方をよくご存知だと思います。私は中沢新一と河合隼雄を心の師と仰いでいますが、中沢新一の最近の本でも書かれているのはレンマという個体同士が繋がって相即相入している世界観です。人と人も繋がり合うし、人と自然、人と動物、そういったものが繋がり合う世界観にとても惹かれるのです。本来の姿はそちらの方だと思います。アメリカをはじめとして、格差の問題、人種差別の問題、分断の問題がありますが、今こそ「一の多」、「多の一」、「分別智」という分ける思考ではなく、「無分別智」という分けない思考が重要になってくることは言うまでもありません。多くの人にそのような考え方が伝わっていってほしいです。
今日も一日が終わろうとしています。大きな分断の後に、変革があり、多様な人、動物、自然が繋がり合う世界が来ることを願い日記を終わります。