ロートレアモンと芭蕉と道元
自と他、主体と客体を越えて融即する世界。
ロートレアモンは詩を通して全く別個のものを融即させている。解剖台、ミシン、雨傘が偶然に出会って、なにか壁を突き抜けるようなイメージを通して見事にそれらは繋がっている。その偶然の出会いの瞬間、それらは一つになる。
芭蕉も俳句を通して、その数少ない言葉の中に、世界が現れる瞬間を切り取る。古池に蛙がぴょんと飛び込んで、チャポンと音がして波紋が広がる。その情景、その瞬間がありありと浮かんでくる。この句を読む時、蛙、古池、波紋はすべて自分の中に起こる。自分は蛙で、池で、水の波紋である。事事無礙の世界、カミが現れた瞬間だ。
道元は、一切の衆生は悉(ことごと)く仏性を有している。生きとし生けるものすべてのものの中に仏性が存在し、「山川草木悉有仏性」山や川、草や木にも仏性が宿っていると説く。人類学者の岩田慶治は道元の「正法眼蔵」を携えてのフィールドワークを通してさまざまなものに「カミ」が現れる瞬間を切り取る。
カミとはなんだろう?仏性とはなんだろう?
自と他、主と客、分断する世界がつながって一つになった瞬間にカミが、仏が、現れてくるのかもしれない。