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【5、お定と春琴(独り言多めの読書感想文、村山由佳さん『二人キリ』)】



 お定のことを語る上で近しい所にふと浮かぶは、谷崎潤一郎の『春琴抄』に出てくる春琴。簡単に共通点を挙げておく。
・昭和初期・舞台:春琴は芸を売り、お定は春を売った
・SMカテゴライズ(違う)
・高い自尊心・感情制御不能・不遇
・理解者がいることで周りへの被害を最小限に抑えられる

 言動や立ち振る舞いが奔放に見えるものの、その実彼女たちはギッチギチに縛られている。基本縛るのは社会。仕事、立場。ただ、そんな狭い世界で夢を見させる。三味線稽古をしていた畳の間、客の相手をしていた寝床。
 
 そもそも夢を蓄えていなければ夢を見させることはできない。具体的に媒介となるようなものがあって初めて「その空間」は成立する。春琴は三味線。お定は先生の言葉。忘れないうちに書いておく。
 村山由佳さんがこの作品を通じて訴えたかったこと。先にこの作品の心臓を紹介する。
 
〈小説であれ、映画であれ、そいつが虚構かそうでないかを分けるものって何だ? 仮にドキュメンタリーの看板を掲げていれば全部が真実か? 違うだろ。たとえ元々が実話であってさえ、人に伝えるべく言葉や映像を使って表現されたものは、どうしたってことごとく虚構になっていくんだよ。俺がちがひとつの言葉、ひとつの映像を恣意的に選んだとたん、そいつは実際に会ったことから少し離れる。少しずつ少しずつ離れていって、完成する頃には元のかたちなんか留めちゃいないんだ。(中略)いいか、俺らにできるのは伝えるべき物事の心臓がどこにあるかを見失わずにいることだけだ。そこさえ間違わなきゃ、極端な話、事実にどれだけ大きな脚色を施したっていいと俺は思ってる。きみにもとっくにそれくらいの覚悟は備わってるもんだと思ってたがな〉
 そうして〈小説なら──いえ、言い直します。すぐれた小説なら、事実の軛を振り払って、真実に迫ることができる〉としている。

 伝え方ひとつで「そのこと」は歪みかねない。先も書いたが、作者である彼女にとって、実在した事件を小説として取り扱うのは覚悟のいることだった。だから自分で枠を作った。「I think so」「~と私は思う」と。その距離の取り方が絶妙で誠実で、いかに内側に入り込んで書いていたかが分かる。
 さて、お定と春琴の話に戻る。
 
 幼少期荒れた家庭で育ったお定と、盲目の春琴。高い自尊心に感情が乗っかり、腫れ物が如く双方とも「期待されることはなかった」結果、まともに人と向き合うことができなかった。参考までにお定の独白を載せておく。
 
〈「お前は、やればきっとできる」そんな風に言われた時も、嬉しさより戸惑いのほうが先に立った。何しろこれまでのあたしは、人に貶されてはナニクソと奮起して見返す、の繰り返しだったし、結果を出すまでは誰もがあたしを下に見た。見てさえもらえず虫けらのように扱われることだってあった〉
 
 人は見られたようになる。
 お定は、だから先生と出会うことで変わろうとした。努力もしたし、共に過ごすことを楽しみにもしていた。けれど世間は印象の強い事件を元に像を作る。好き勝手言われることで「そう」なってしまう。だからたったひとり理解者が現れることで救われる思いがあった。
 
〈「あのくだりを初めて読んだ時から、強く印象に残ってたんです。ああ、そうか、あなたも楽しみだったんだなって。一緒に旅行へ行く予定が日々の張り合いになるくらい、きっとあなたなりに野々宮五郎先生のことをちゃんと好きだったんだろうなって」〉
 
 事件の数日前、買った石鹸箱。それは確かに先生との旅行のために用意したものだった。結果別の男と過ごし、その男を殺すことになっても、「そうしたお定」は確かにいたのだ。その場において下す決断。白か黒か。同じ人物でも全て同じ傾向を辿る訳ではない。その理解が女の心を開けた。
 元来女性は「そのままの君でいいんだよ」というのに弱いらしい。「らしい」というのは、私自身、少し前まで分からない感性だったから。こと弱くなることが多くなってくると沁みるようにして分かることがある。ただ、資本主義社会において「そのまま」でいられる訳がないし、「そのままの~」と言う側が、言われる側にとって相応の存在として確立されていなければ聞き流す案件。だからこそ本当の意味でそれを実現できた時、女はその傍を離れない。それがどれだけ貴重な存在かなんて、振り返らずとも分かるからだ。
 
「不遇だった自分を信じてくれた人」にきちんと向き合おうとした心。
 人は自分に向ける顔を見てその人を判断しがちだが、「その人」に見せる顔は、他の誰とも同じではない。だから全ての罵詈雑言に目を瞑ってきたお定にとって、別の一面を見てくれた、きちんと自分と向き合おうとしてくれたその事実に、あたかも成仏するような心地だったに違いない。結果お定は〈ひいいいい〉と泣いた。膝から崩れ落ちるように、60過ぎの女性が肩をゆすって思いを吐き出す。内蔵するはどれほどの孤独か。見下されるのが当たり前で、なのに自分を信じてくれた人も最終裏切り、どうしようもない自分を自分が一番分かってる。誰にも理解されるつもりもなかった。だからこそ。
 
〈抱主にもえらい可愛がられて、『セキセイ』なんて綽名(あだ名)つけられてね。ええ、セキセイインコのセキセイですわ〉
 
 はたから見ればただの美しい人。
 何の不自由もなく、意のままに振る舞うお嬢様。
 
 本当の自分。
 カッとなればすぐ手が出る春琴、嫌になればすぐ奉公先を逃げ出していたお定。一刻の感情を抑えられない。後のことなど考えられない幼さに、けれども許してくれる人がいたから成り立てていた。生かされていた。

 花咲くような笑顔じゃない。二人とも思い描くとき、眼前に浮かぶは挑むような目。昏いものを抱えて尚、希望を失わない光。だから仰がれる。だから語られる。ただの事件じゃない。事件を起こした張本人に魅力があるから、知りたいと思わせる力があったから、何度も蒸し返され、何度もテーマにのぼった。全ては気高くブレない像があったから。
 媚びず、阿らず、笑わず、従わず。
 極端で過激な、己の然りとしたものしか受け入れず、逆に善しとしたものには全てを注ぎ込む、お定であり春琴。その魅力は時代をも超える。
 
 作中登場する坂口安吾氏。私は『悪妻論』しか知らないが、この作品を語る上で必要十分にも思える。少しだけ引用しておく。二人とも手本にピッタリだ。





 
 ただ性質に限って言えば、二人に共通する点を挙げたところで、世の男性を悩ませる全女性に言えることでもある気がするのだが、さていかがなものか。
 
 









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