記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

【2、600石の妻(独り言多めの読書感想文、村木嵐さん『またうど』)



 自分がどう見られるかより、世の実利を優先した意次。それができたのは己が重きを置く相手とちゃんと目が合っていたから。家重、家治、それに妻である綾音。今回は綾音を取り上げる。
 意次にとっての綾音は〈どこか同志のような愛情があった。打てば響くというように聡明で、もちろん外見も美しい。己にとって綾音だけは代わりがきかぬと、実は心底思っている〉相手。
 その気性が見て取れるやり取りがあるので紹介しよう。〈「相良は転封になるかも知れぬ。綾音にはあの町を見せてやりたかったがな」〉と口にする意次に対しての返答。
 
〈「いっそ、蝦夷に転封になれば宜しゅうございますね」「私は相良より蝦夷へ行ってみたいですわ」〉
 
 蝦夷は意次が国を富ませるために開拓を試みた場所で、極寒の上、北はロシアの目があり、とても進んで行くような場所ではない。ただ意次にとって、息子が生きていたら蝦夷はやり遂げるよう言うつもりで、それ程思い入れの強い地だった。
 そのこと自体、目黒の大円寺から火が出て田沼の屋敷も焼けた時、意次がずっと大事にしていた文箱を真っ先に懐に入れて避難した時のように(中には手に麻痺のある家重直筆の「またうど」と書かれた半紙が入っていた)綾音には男が本当に大切にしているものが分かるということだった。
 もうひとつ、37000石から27000石召し上げ、相良城も没収となった時のセリフ。
 
〈「ええ。殿が600石に戻られたら、それはそれできっと愉しゅうございますよ。600石には600石の暮らしがございますもの」〉
 
 口で言うより上がった生活レベルを落とすのは難しい。綾音がそう口にできたのは、何よりこの男にはそれ以上の価値があると信じられたためだろう。そんな妻を意次は〈己には綾音も、またうどの文字もある〉とした。
 とにかく失ってはならないもの。これさえあればどんな誹りも甘んじて受ける。逆に「どんな誹りを受けたとしても本来得られるようなものではない文字」と同列に並べるだけの存在。何気なく意次が綾音にかけた言葉に見て取れる思いがある。こちらも紹介する。
 
〈さすがの綾音も少しは歳を取ったろうか。もう夫婦になって三十年は過ぎた〉
 
 夫婦になって三十年経過して「あれ、ちょっと老けた?」と言う。「うるせえ」とどつかれるが(言ってない)元々〈外見も美し〉かった分、そこに大した重きを置かない様に、綾音自身安心しているようにも見える。
 余談だが、意次は何人もの側室に子どもを産ませている。綾音の子は幼くして亡くなり、以来二人の間に子はない。家治もまた女児を産んだ本妻にプレッシャーをかけないために、側室に男児を産ませ、本妻の子として一緒に育てた。役割分担というか、効率的というか、機能性に特化しているというか。考えてみれば家重もそうで、ああそうだ、帰蝶にも教えてあげたいと思う。
 
 さて、まいまいつぶろを知っている方は薔薇を覚えているだろうか。家重が比宮のために毎日送り届けた花。その薔薇を家治の弟重好が庭先で育てていて、物語終盤〈久しぶりに目を覚ます〉ほど老衰した意次に見舞いの品として届く。けれどすでに意次に鉢から庭に植え替えるだけの力は残っていない。その薔薇のことを知っていた分、心残りに思っていると、綾音が声をかけた。
 
〈重好様にいただかれた薔薇は、わたくしが地植えにしてやりました〉
 
 たぶん私は「してやりました」のニュアンスを間違って捉えた。瞬時に浮かんだのは満足げな綾音の姿。「重かったし根張ってるしヤベエ高価なヤツって知ってっけどやったったドヤァ」として、だから安心しろと言う様。
 本来薔薇は贈られるもの。けれど贈れないのなら受け取りに行けばいいとして、その様はまるで「自分へのプレゼントを自宅に届く前から取りに向かう」かのよう。
 反応できない意次も、腹の中ではあっけに取られて笑っただろう。人は最期の最期まで耳は聞こえているという。反応のない夫に、綾音は言葉を続ける。本当に愉しかった。あなたはどうだったか、と。一人残す妻が気がかりで仕方なかった意次の、その心に寄り添う様はまるで〈私に何が起ころうと、助けようと決して思うな〉と口にした意次そのもの。自分は大丈夫だからと安心してもらうことが、この場において何より大事だと綾音は分かっていた。
 
 600石の妻。意次の胸には「またうど」の文字もある。
 もうどんな誹りを受けようと、この男からは何も奪えない。






いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集