【3、キングは勝手に落ちた】(独り言多めの読書感想文、朝井リョウさん『スペードの3』)
五十嵐壮太は「この中で最も力を持つ者」で、美知代にとって〈男子は声が大きい。理科の先生が実験の説明をしていることなんてどうでもいいみたいだ。怒られるのが怖くないのだろうか〉という存在。
規定の枠内で生きる集団。そこにはルールがあって、けれども壮太はそんな枠組みに囚われない。いつだって意のままに振る舞うその向こうに見えたは自由。自分にはない感性に惹かれる一方、それでも、そんな男でさえも可視化されたルールの一つ外「集団心理」から逃れることはできない。
〈クラスでイチ、ニをを争うほどに体が大き〉く、〈やがて入学する中学に通う兄を持〉ち、〈既に何か大きな力を手にしているよう〉に見え、男子から一目置かれ、女子から「怖い」とされる壮太でさえも、理科の実験で美知代が磁石を持って蹉跌を動かした時奪った視線に、この男でさえも自分の思い通りになると思った。壮太と対等に話ができるのは女子の中で自分だけであり、その事実は美知代の自己肯定感、「特別」を凄まじい力で補強した。壮太の存在があって初めて美知代政権は成り立っていた。
ところがここにめっちゃかわいい転校生が現れる。めっちゃかわいい上、持っている文房具も〈母親が文房具を扱う仕事をしている〉ために皆と違うものばかり。指を怪我した美知代の代わりにピアノを引き受けた時には〈きっと美知代ちゃんよりへただと思うから……何かアドバイスあったら、言ってほしいの〉と自ら口にするような、大人顔負けの低姿勢。明らかにデキる。もしかしたら転校自体初めてではないのかもしれない。
その子の口からはよく〈クラスの合唱をよくするための案が次々零れ出てきた〉しかしそのことに対して美知代は〈愛季の話していることが、美知代にはよくわからなかった〉としている。ただ〈だけど確かに、練習すればするほど美知代のクラスの合唱はよりよいものに変わっていく実感があった〉
そんな、行動全ての頭に「自分」がつく美知代と、「みんなにとって」がつく愛季は、同じ場所に立っても同じものを見ていない。それは周りの反応をもって明確な差になっていく。
〈一番後ろの列、右端〉
いつもは口を開けもしない五十嵐壮太が歌っているのを目にして乱れた美知代の指揮。けれども全く崩れない歌声のリズムは、愛季の弾く伴奏が乱れていないため。壮太だけがオルガンを見ていた。少しだけ首を伸ばして、伴奏している愛季のことを見ていた。
ここで取り上げたいのは、壮太が決して「かわいいから」「珍しい文房具を持っているから」愛季を見るようになった訳ではないということ。壮太自ら愛季に対して起こした行動は本書内で二度だけ。そのどちらも幼いこと。内一つを紹介しよう。
〈壮太が、愛季の机の上に手のひらを滑らせる。「あっ」愛季が情けない声を漏らしたけれど、壮太は全く聞いていない。
「百点ってマジ? ヤバくね? 無敵すぎだろ」〉
毎週各家庭から持ち寄るベルマークの点数の高さを競っている男子にとって、それはとんでもない価値を持つものだった。給食のデザートがかかっているから尚さら。その後美知代がとり返したベルマークは、他と同じように収集袋に入れられてしまうのだが、その袋を漁って百点を探す壮太はドン引きにカッコ悪い。
この時点で壮太は点でしか物を見ていない。
「給食のデザートに繋がる強力な武器それ俺欲しい」
別にバカにしているつもりはないけれど、すごいバカみたいな物言いになってしまった。でも間違ってはいないと思う。百点のベルマークは、実は愛季がピアノを買ってもらったために手に入れたものであり、それから愛季は自宅で一生懸命ピアノの練習をするようになった。
「相手はあなたが思うほど愚かではない」
世の中には「自分にメリットがありそうな人にだけやさしくする」人がいる。仮にこれを狭い視野故としておく。点でしか見ない。ただ点に対しては力を発揮する壮太は、愛季がクラスの合唱を良くするためにピアノの練習をしていることが、直接知れずとも分かった。
それは「なんとなく居心地がいい」という感覚。
感覚。感性をむき出しに、自分のしたいようにしてきた壮太は、己の心地よさには人一倍敏感だったに違いない。美知代の伴奏は「歌わされる」「合わせさせられる」から従わない。一方で愛季の伴奏は「よく分かんないけど歌いやすいから歌いたくなる」それはまさか「従う」という感覚ではない。よく分かんないけど気分がいいからそっちに向かう。働かせるは嗅覚。その出元を辿る。そうして結果行き着いた先が愛季だったに過ぎない。
壮太は知らない。愛季が美知代にアドバイスしていたこと、絵が上手いむつみに修学旅行のしおりの表紙を任せようとしていたこと。
どうしても目立ってしまう「かわいい容姿」「珍しい文房具」「百点のベルマーク」「ピアノを買ってもらえる家庭」
そんな、美知代だけでなく、誰もが黙らざるを得ない武器を持ちながら、愛季はだからこそ必死で見合うための努力をした。自分も同じであると。仲間に入れて欲しいと。心地よさを提供することで受け入れてもらおうとした。その感性は、元々居場所を約束されていた美知代にはないものだった。
怖いのは、ここで書籍の冒頭に戻って見る〈トランプゲーム「大富豪」〉ルールとして記された一番下。
〈「大富豪」だった者がそのゲームで一位になれなかった場合、次回のゲームでは「大貧民」となる。これを「都落ち」という〉
ただのルール明記だったら〈これを「都落ち」という〉という最後の一文は必要ないように思う。わざわざ残したのは必要だったからだ。メタファー。最初から居場所を約束されてあぐらをかいていた美知代の傍で、相手の立場に立ち、そのメリットを用意することで何とか居場所をつくろうとしていた愛季。
愛季のしていること自体、もはや小学6年生のすることではない。基本それは加齢によって経験を重ねるか、あるいは「一度マジで死にかけた」経験によって強制的に気づかされることであって、やっぱり愛季にとっての転校は初めてではない気がする。
人はやさしくされたらやさしくする。心地よいと感じる相手と一緒にいる。
最終、修学旅行の夜、壮太が愛季を呼び出した時の周りの反応が全てを物語っている。
相対。人の枠は大きくも小さくもならない。100ある中で自己が80を占めれば相手は20。8割の想像から生み出された相手は、2割のヒントから得られた虚像。当然現実と噛み合うはずがない。けれど、じゃあ相手を80としたなら。
それは、限りなく近しい形で現実と噛み合う。
基本的に人にはどこか人を意のままにしている感覚がある。いずれ答え合わせをする機会があって、真実はその時知れる。愛季はシンデレラ。何もないのではなく、全てを持ってしまっているというチート、浮きやすい条件を、それは個人の努力でならした結果。
真実。愛季の努力はキングを落とすに値した。
足元に散らばるトランプ。皆が皆愛季を追って駆け出す。誰しもが「先生に怒られるかもしれないリスク」より、「突発的に発生したイベントに対するワクワク」をとった。そこには愛季に対する仲間意識がきちんと根付いている。
考えてもみてほしい。例えば愛季の立場が美知代だったとして、自分が特別であると鼻にかけている美知代相手に、誰もが羨む異性から呼び出される場面に立ち会ったとして、周りの反応として想定されるのは「早く行ってきなよー」であり、嬉々として出て行く本人を見送った後、残るのは「いいよねー私たちとは違ってー」という悪口。当然誰もその場を動かないし、まずもって壮太の興味を引くことすらなかっただろう。
その後むつみと再開して、ようやく今の自分を認められた美知代。自分が悪いと認められたその先、今度は誰かのために自分を使う。その方向であってる。ただ、急いで、と思わずにはいられない。
平等に与えられた時間だからこそ、後々響いてくる。いかんせんスタートラインは横一列ではない。愛季が「持った」状態で現れたように、ヨーイドンでは既に手遅れ。出会った瞬間にもう勝負は決している。
だから今目の前にいる人は無理だろう。次出会う人までに間に合うといい。