【前書き、このハッピー野郎(独り言多めの読書感想文、村山由佳さん『二人キリ』)】
「恋はしようと思ってできるものではないから、大切にした方がいい」というのはどこで見たものだったか。確かに「何かいいことないかなー」を「恋がしたい」としたとき、夢中になれるものは望んだとてそうそう出会えるものではないし、出会えていたとて、気付けるばかりでもない。
若いうちの方が恋をしやすいのは、感性が鋭く、敏感なため。リスク何のその、えいやあと清水の舞台から飛び降りる勢いがなければ結婚なんてできない。あるいは「できちゃった」と突き飛ばされるようにして飛び降りるケースもあるかもしれないが、とにかくここに必要なのは「勢い」。皮肉なことに「人間社会の基盤を作る、極めて理性的な制度」は、理性なんかあっちゃ到底受け入れられないのだ。
人間も所詮動物だとしても、理性があることで、社会の基盤を成り立たせることで、弱い葦が集団の恩恵を受ける。逆に集団の利がため、個の思いは殺さざるを得ない。
〈あなたは、誰かを好きになったことがおありでしょうか。ちょっとやそっとの好きではなくて、心と身体の奥底からあふれて迫り上がってくるような、そしてそれをどうにもこうにも持て余して息もできなくなる、そんな苦しい気持ちを抱え込んだ経験がおありですか〉『二人キリ』より
だから万が一にも出会わぬ方が幸せなのだろう。己の人生と引き換える。その代償は個にとどまらず縁者も巻き込む。最も近しい人から順に深く傷つけていくのだ。
人は、残念ながら手に入らないものを求める。だから自分は我慢しているのに誰かが我慢できなかった時、叩かずにいられない。叩かずにいられない癖に、羨望の目で恋を見る。自分もそれだけのリスクを冒しても構わないと思えるような恋がしてみたいと。ただ、実際そんなものに出会ってしまった人にかける声は、
「お気の毒に」ではないな。「御愁傷様」も違う。「運が悪かったね」でも「『恋はするものじゃなく堕ちるもの』って言うしね」でもない。ふいに手のひらに顎を乗せて微笑む友人の顔が浮かんだ。彼女はあの時、何と言って欲しかっただろう。道理倫理仁義理。人としての倫を踏み外した者。構わない、と自ら日陰に飛び込んだ覚悟にふさわしい言葉は。
人は、大切に思う相手ほど否定しがちになる模様。「そっちは危ない、こっちの方がいい」。それが結局首を絞めてた。あの時気づければよかったのにね。いや無理か。20歳の若造にそんな柔軟性はない。あの時はあの時で私なりに大切にしていたつもりだ。自分がどう思われるかより彼女の幸せを願って。言っても自己満足か。
良いだか悪いだか、年月を重ねた分、私も随分物分かりのいい大人になってきた。それは以前なら明らかな黒としていたものに白を垂らすような。「許容範囲が広がった」「少しだけ柔軟になった」「自信のなさゆえ弾いていたものを受け入れられるようになった」という類のもので、好き嫌いが減ったという感覚に近しい。単に潔癖な感覚が鈍感になったと言われればそうとも思う。
いずれにせよ、今なら少しだけマシな声掛けができる気がして。「実際そんなものに出会ってしまった友人」に声をかけるとしたら、そうだな。同じように手のひらに顎を乗せて「このハッピー野郎」かな。あと「ハイが廃になったら何も考えず空メールよこせ」。八重歯を見せて笑う顔が浮かぶようだよ。
【目次】
前書き、このハッピー野郎
1、売れない本
2、切り売りじゃねえよ
3、美味しいと思えるか
4、『二人キリ』序
5、お定と春琴
※今回個人的に作者への思い入れが強いため、『二人キリ』本体にたどり着くまでに時間がかかるのと、限りなく考察に近い感想文であることを先にお断りしておきます。
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