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(1/8)『天下取』独り言多めの読書感想文、序
【※本編は戦国の世を女性視点で展開していくため、そもそも当時の女性の置かれていた環境、境遇から話を始める】
元はと言えば日本の女性はめちゃくちゃ強かったらしい。古く卑弥呼から始まり、推古天皇、紫式部、小野小町、それに巴御前に北条政子。もはや「世界最強」と言っても過言ではなかった。
当時、世界の常識はというと、例えば中東ではイスラム教の影響で女性は外出もままならなかったり、中国の儒教では「三従の教え(幼少期は父に従い、嫁いだら夫に従い、老いたら男児に従えというもの)」があったり、キリスト教は〈慈愛を説くけど、つい最近まで女に魂があるかどうか真剣に議論していたような宗教なのよ。女は生まれ乍らにして娼婦だと〉(京極夏彦著、『絡新婦の理』より)だったり、基本的には男尊女卑がベースだった。
だから明智光秀の「主殺し」を受けて、家康がモラルがために中国から輸入した朱子学(儒教)は、忠義を教養として確立させる一方、女の役割は男のサポートとしてしか認めておらず、結果的に女性の地位を低下させた。
それまでの日本の女性像を、キリスト教布教のために来日したルイスフロイスが比較という形で残しているので、いくつか引用する。「欧」がヨーロッパの常識、「日」が日本の常識だ。
欧「未婚女性の最高の栄誉と財産は貞操」
日「処女の純潔を何ら重んじない。それを欠いても、栄誉も結婚(する資格)も失いはしない」
欧「夫婦間において財産は共有である」
日「各々が自分のわけまえを所有しており、時には妻が夫に高利で貸しつける」
欧「妻は夫の許可なしに家から外出しない」
日「夫に知らさず、自由に行きたいところに行く」
令和における現代でさえ、政権が変わることで教育を受けることができなくなった多くの女性が、やむなく「男性のサポート」をすることで何とか生きながらえている国があるだけに、これだけでも日本という国がいかに恵まれているかが分かる。
無論、家康を非難するつもりはない。これはただの弊害で、家康自身、和を以て貴しと為す人であり、フェミニストだった信長の意思を受け継いで、やはり女性の働きに重きを置いていた。
じゃあなぜ日本の女性はこれほどまでに強かったのか。あるいは男性が弱かったのか。
私なりの結論を先に言う。「役割の名の下に平等だったから」それに「女性は強くいられた。日本の男性が『その』豊かさを知っていたから」。「弱かった」ではない。「その方がはるかに豊かであると感情の面で理解していたから、自らそっちを選んだ」というもの。
短絡的に「成果」だけを求める、例えば「おにぎりと柿の種」と区分したとき、おにぎりに相当するもの。基本狩猟民族はその日暮らし。だから「今」を満たすことが何より大事。だって食わんと死ぬから。だから子孫も残せる時に残しておく。そこに相手の意思など関係ない。目的のために動き、結果子孫が残り、人類が繁栄する。これは生き物としての至上命題であり、何ら間違ったことではない。
今回取り上げる『天下取』でも、武田信玄の子、春姫は男児を4人、女児を2人挙げている。よくもまあぽんぽこ産んだこと、と同じ女性でありながら生き方の違いに敬服するばかりだ。
じゃあ柿の種に相当するもの。一方で日本は農耕民族。集団で村を作り、蓄え、例えば狩で仕留めた獲物が隣の村の敷地内で倒れたとしても、きっちり半分こするような、和を重んじ、極力争いを避ける生き方をしてきた。元はと言えば、どの国に散ろうと祖先は皆同じはずなのに、生活形態からかハナっから相手の気持ちを重んじる性質を持っていた。
生殖の比較としては、例えば黒曜石を求めて他の村からやってきた男は、手土産と黒曜石を引き換えた上、村の宴に参加して、どうしても近親相姦になりがちな集落に、できるだけ種を蒔いて帰って行った。その方が強い子が生まれると皆が皆本能的に知っていたからだ。当時一夫一妻制ではなく、そうして皆で子を産み、皆で育てた。それは「役割」
役割。狩りをする男性と、子を育て、調理する女性。縄文時代は一日4時間程度の労働で、あとは好きに過ごしたという。だから上下が生まれない。役割のもと、皆平等だった。
そう考えてみれば卑弥呼も推古天皇も紫式部も小野小町も巴御前も北条政子も、皆役割として秀でた成果を挙げたために名を残した訳で、中国のように単純に女性だからという理由で名前が残らないなんてことはなかった(ちなみに中国史最古の女性は655年、高宗の皇后となった則天武后。日本の推古天皇の例から女帝に上り詰めた)
女性が生き生きしている空間は富む、というのは私個人の考えだが、これは林先生も過去に著書『仕事原論』で語っている。林先生は男性の友情不要論を説きながら、一方で女性に対して「仕事ができる人は女性を味方につけている」と堂々表題を打って持論を展開している。曰く、相手が例え女生徒であっても「成功のカギ」を握っているらしい。
〈女性の支持を、さらには応援を得られるかどうかは決定的な差になります。「できる」人は上手に女性を自分の味方にしているもの。女性の応援が得られて初めていい仕事ができるのですから、当然と言えば当然です(中略)良好な関係さえ築くことができれば、何かあったときに周囲の女性はあなたの力強い応援団になってくれるはずです〉
そもそもコミュニケーションは「始まる前に終わっている」として話をする訳だが、じゃあ男性は女性の機嫌を伺わなければいけないのか。否。決してそうではない。私の記事の読者は、肌感7割男性だ。敵に回すつもりはない。これはただの「事実」として捉えていただきたい。
コミュニケーションの起点はどこか。鶏卵理論的な。これについては声をかけるのが男性からだとしても女性からだとしても、まずは「声をかけようと思うか」から始まる訳で。こと現代において、窮屈な環境が男性の身動きを制限しがちなため、ここは「女性から声をかける」パターンとして話を進める。
普段の立ち振る舞い、在り方を見て、まず女性側が声をかけるか決める、あるいは声をかける相手を選ぶ。そうしてコミュニケーションをとっていく中で、ある日突然「お願い」が湧いて出る。男性側がこれを鬱陶しいと捉えるかチャンスと捉えるかは、その女性の普段の在り方が関わってくる訳だが、とにかくこの「お願い」が大きな分岐点となる。
そもそも「お願い」は「聞いてもらえるかもしれない」という期待と、そうでなくても無碍に扱われることはないという信頼ありきで初めて発動する。さらに言えば相手に負荷をかける分の見返りを用意しなければいけない可能性まで含めると「お願い」自体、する側にもリスクがあるのだ。
だからこそこの「お願い」、リスクを負ってでも依頼した分、叶った時、男性側が思いもしない報酬を受け取ることになる。それは受け取ったことのある人にしか分からない、圧倒的な豊かさ。
女性は友人同士、あるいは仲の良い者同士で心を合わせることができる。音として「ぺたん」。手のひら同士をぴったりくっつける。音に起こさずとも、感情をまるっと共有することが、通じることができる。その場に応じてくっつく相手を変えて、ぷよぷよのごとくぺたぺたと同じ色同士でくっつく。それは何人集まろうと消えることはない。そうしてただただ大きな生命体を形成する。
一方で男性は友人同士とはいえ、どうしても張り合わずにはいられない。だから女性に比べて「寂しさ」の根が深く、それは垢のごとく時間経過とともに蓄積されていく。そこにきて女性がニコニコしながら寄ってくるのだ。そうして「うれしい?」「悲しい?」と共有がために両手のひらをパッと開く。
アルカと同じ。例えば願いを叶えてくれた相手に対し、相応の「叶える側の人間」に変わる。それが応援団。「団」というのは個人では成り立てない。それこそが「圧倒的な」豊かさ。手に入るのは目の前の女性の肯定だけではない。その女性のもつ社会までもがこぞって色を変える。
〈何かあったとき〉、女性は声を上げる。だって自分が非力なのを分かっているから。するとまずはその近くにいる同じ色をした人たちが駆けつける。それでもどうにもならない時、今度は駆けつけた誰かを大切に思う人までも駆けつける。それは結果的に「助かる」まで連鎖する。だから縁なのだ。だから社会なのだ。だから〈人ひとりの性根を見くびるな〉なのだ。
人は一人では生きていけない。だから己が役割を全うする。その上で己が役割を全うするために「お願い」をする。個人の中だけではなく、集団で巡る。循環。そうして垢は水に流され、豊かに潤っていく。
この豊かさを、同じ時代に生きていても知る知らないがある。女性の生き生きしている空間。その笑い声を、だから知っている男性はそれだけで強い。迷わずに済むというのは、力の面において全てに秀でている男性が全力を出せる環境というのは、必ずや国を富ませる。
そうして互いを尊重し合うことができる限り、どんな形であれ、この国は守られる。必ずやどこかで「守らなければいけない」という力が発生する。心地いい場所は失ってはならないという本能が働く。本当は誰しも平和に生きたいだけだから。
さて、毎度前置きが長くなりましたが、感想文始めます。