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【3、美味しいと思えるか(独り言多めの読書感想文、村山由佳さん『二人キリ』)】



 付き合うに当たっての禁止事項として「他の異性と二人きりで食事をすること」というのは、比較的取り入れられていることと勝手に思っている。このことについて、当初確かに分からないでもなかったが、今尚その制約は必要かと思う。
 と言うのも、単にこちらの女としての魅力どうこう以前に、例えば学生や若い時分というのは前提が近く、何となく話ができる範囲で出会い、似たような話題で盛り上がれるため意気投合しやすいのだが、今はというと社会的立場、収入、こだわり、環境で形作られた感性など、店選び一つとっても緊張を強いられ、とても楽しむどころではないからだ。
 そうして異性と関係するに当たって、評価ばかりを気にするようになる。「自分のこれまでは間違っていなかったのか」経年で蓄積された差を前に、その様はさながら面接を受けるかのよう。だから「美味しかった」とはっきり言える関係を、今更眩しく思う。そういう意味では、あるいは食事を目的とせず「食事という場を利用してしたかった話をする」というのならアリかもしれない。楽しみながらした食事はたぶん美味しい。
 
 何が言いたいかというと、大人になるほどに単純に心のやり取りをするだけでもはハードルが上がるということ。その人の背景なんて基本開示されない限り知る手立てはないし、知ったとて理解の及ばぬ範疇かもしれない。じゃあ運よく近しかったとして、かえってベースの近しさが実際のコミュニケーションの邪魔になる可能性もある。
 
 心中、というと大袈裟に聞こえるかもしれないが、だからこそそれほどまでに人を好きになれるということ、ひとつの本能のために、もうひとつの本能を裏切ってでも「それがいい」と思えるのは、一体どんな感覚なのだろうと思う。私自身、人格が崩壊するような恋を知らないから想像するしかないのだ。社会的立場、収入、家族親族、全てと引き換えて構わないというのは、一体どれほどの出会いなのだろう。その後社会からどれほど侮辱され、悪様に罵られ、好き勝手推察されようと、それでも自分がしたことは間違ってなかったと胸を張って言えるのは、一体どれほどの想いなのだろう。何を持ってそれだけ信じられたのだろう、と。
 人生や命をかけて恋をする、その内実を知りたい。それがこの感想文っぽいものを書き始めた動機であり、いい加減感想文始めます。






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