『またうど』読書感想文、骨格
そもそも意次は金子を懐に入れ続けたために罷免になった訳ではない。
意次が城を追われたのは将軍の代替わりで、別の派閥が台頭することで退けられたため。その完膚なきまでの突き放しようは、有能が故の恐れの裏返しにも思える。
この時、それまで長男(嫡子)家系で繋いできたものを、後継不在のため弟の家系で引き継ぐことになったのだが、元来近親者という立場を利用して下手に政治に口出しをしないよう、それまで弟家系は中央からしっかり遠ざけられていた。これは、身内で政治を私することのないよう幕閣主導で行っていたもので、だからこそ実質トップだった意次が見せしめをくらった。
作品全体の構造としては『地上の星』を彷彿とさせる。「見張り番の一視点から始まり、幕閣のやり取りを見せ、再び見張り番の視点に戻る」様は「おせんの視点から始まり、お京の住む世界を見せ、再びおせんの視点に戻る」のに同じ。いっときの夢。シンデレラのような、手本のような栄枯盛衰。故に読む側も入りやすいのかもしれない。
それぞれの立場で考えること。何を尊び、何を誉とし、何に心動かされるか。意次は〈明年の天候を読むともうしておるのではない。ここ一、二年の人の心がどう動くか、私はそればかりははっきり分かる〉としている。そうしてそれこそが最も尊ぶべきものだと思う。
余談だがふと思い出したのは『のぼうの城』の成田長親のセリフ〈わしは悪人になる〉。水責めをくらい、どうしようもなくなった時、水面に小舟を浮かべ、トップ自ら余興を始めた時のこと。当時はこんな洒落が大層もてはやされた。敵軍を前に、防具一つ身につけず己を晒す。その豪胆さは粋として讃えられた。だが敵側の将は何を考えているか分からない男の不気味さに疑心暗鬼になり、恐怖から銃撃をしてしまい、それを引き金に、既に寝返った敵軍の内から反乱が起きた。
〈アイツのぼう様を撃ちやがった〉
まるでシシ神様である。神聖な生き物を。頼りなくてどうしようもない生き物を、絶対に攻撃してはいけないのだ。必ず庇護者が見てる。そのこと自体、敵とか味方とか関係ない。
〈わしは悪人になる〉
それは自分が周りからどう見られているか知った上での行動。どうしようもないと笑った人たち全てが鬼と化す。これは過去に触れた信雄(『忍びの国』)や京(『村上海賊の娘』)も使っている手。
大きなものを動かす時、必要になるのは人の心を汲み取る力。
アドバイスは上から。じゃあどうすれば良いのか。話はそこから始める。