《半可通信 Vol. 12.2》 あいちトリエンナーレ歩行記(後編)
あいちトリエンナーレ2019(以下「あいトリ」)についてここまで2回にわたって書いてきた(前回はこちら)。個人的関心から、どうしても社会的・歴史的テーマに絡んだ展示に多くの紙幅を割いてきたが、それだけではない多様な表現に溢れていたのがあいトリの魅力の核心だったと言っていいだろう。
その意味で特に挙げたいのが、四間道(しけみち)・円頓寺(えんどうじ)エリアに展示されていた、葛宇路(グゥ・ユルー)による「葛宇路」という作品だ。いや、「作品」という呼び方が相応しいのかどうかすら正直わからない。ただ、そういうことを超えてインパクトを与え、馬鹿馬鹿しいほどの痛快さと笑いをもたらしてくれるという意味で、一級の「作品」だろう。詳細はリンク先を読んでいただくのがいいが、ともかく勝手に自分の名前を街路の名前にしてしまう、というあっけらかんとした、フットワークの軽いアクションが、メディアや行政を巻き込んだ騒動に発展していくのは、ある意味理想的な街頭演劇なのかもしれない。
同じく四間道・円頓寺エリアの津田道子「あなたは、その後彼らに会いに向こうに行っていたでしょう。」、岩崎貴宏「町蔵」も、それぞれ世界の切り取り方、見せ方に切れ味を見せる魅力的な作品だ。津田作品は、二間続きの和室の間の襖部分が半間幅の鏡に置き換えられ、一方の部屋の縁側に面した敷居に同じ大きさのモニターが嵌め込まれている。鑑賞者はそこを歩き回ると、鏡の中とモニターに自分の姿を認める。だがそれだけではなく、モニターには時折、違う時間に撮影された映像が重ね移しになり、リアルとバーチャルのあわいに浮かぶような感覚にとらわれる。岩崎作品は、いかにも蔵に眠っていたであろう古家具や古道具の堆積した上に、炭が一面に敷き詰められている。その上にはやはり炭でできた名古屋城と思われる石垣や、途中から下が埋まったテレビ塔が見える。一見して終末的な風景だが、ふたたび視線を下げれば、その下に堆積しているものの厚みを否応なく感じさせられる。感覚を揺さぶる、見えないものを見えるようにする、それがアートの大きな力のひとつだと思うが、その多様な方法、さまざまなアプローチを改めて認識させられる作品群だ。
アプローチの独特さでは、名古屋市美術館における桝本佳子の陶芸作品群も異彩を放つ。サイトの写真には紹介されていないが、雁の群れが飛び立つのを、複数の壺や皿の焼き物で表現した組作品が、とりわけ人気を集めていた。陶器の一部が動植物や建築物、都市などになっているので、作者は展示の冒頭に「こういうのが苦手な方はご注意を」といった趣旨の断り書きを掲示していたが、これもユーモアと自負によるものだろう。ロートレアモンの有名な「解剖台の上での、ミシンと雨傘との偶発的な出会い」が物質化したようなこれらの作品群は、その飄々としたユーモアと即物的な振る舞いにおいて、この言葉の直系の継承者であるようにも思われる。
最後に、駆け足になるが愛知芸術文化センターで特に心に残った展示について、いくつか触れておきたい。言い出せばきりがなくなるので、一部だけになるのが心苦しいが仕方がない。
ウーゴ・ロンディノーネ「孤独のボキャブラリー」は最も人気の高い作品の一つで、画像も見ていたのだが、実際その空間に身を置くとまた違う感慨がある。気になるポーズのピエロに近づいて、そこから全体を見ると、あれほど密集しているように見えたピエロたちが実は互いに結構離れているのに気づく。いわば、プライバシーの距離が保たれているのだ。休息したり思索したりしている彼らの「孤独」は、そのように保証されており、ピエロに寄り添うことで鑑賞者はそれを発見する。言葉にならない味わいをもたらす作品だ。
クラウディア・マルティネス・ガライ「・・・でも、あなたは私のものと一緒にいられる・・・」は、造形インスタレーションと映像の2つのブースから成る作品。映像では、作者が調査の末に行き当たったという、古代南米に実在した人物(おそらく生贄であろう)の来歴が、モノローグとして再現されている。そして造形は、彼(ら)が遺したかもしれない民芸的な造形品を作者が再創造したものと言えるようだ。忘れ去られていたある人生が、再構成され、思い出され、記憶に刻まれる。これもまた、藤井光や梁志和+黄志恒(前編参照)とは違ったかたちで、遠く時間の彼方にあるものをリアルなものとして引き寄せようという試みのひとつだろう。
永田康祐は組写真と映像の作品を出展していたが、なかでも映像「Translation Zone」が面白かった。シンガポールの歌手Dick Leeの曲"Fried Rice Paradise"の歌詞において、「ナシゴレン」「フライド・ライス」「チャオファン(チャーハン)」が同じものを意味することや、シンガポール料理の「ラクサ」には様々なルーツの混淆の結果、無数のレシピがあることなどを語るナレーションに合わせて、タイの焼きビーフン「パッタイ」を、日本で調達しやすい食材で作る「パッタイ風焼うどん」を作る映像が流れていく。こうして、文化的な混淆が偶発的な、カジュアルな理由で起こるさまを描き出していく。文化的な越境や混淆はあいトリでも多くの作品に通奏低音のように流れていて、あたかもこの映像作品がそれを目に見えるかたちで取り出しているかのようだった。
最後にひとつ、どうしても触れておきたいのが、袁廣鳴(ユェン・グァンミン)の映像作品「日常演習」だ。台北の市街上空を飛行するドローンからの映像には、人影が全く見られない。車もほんの数台のバスなどが道端に停車しているだけで、動いてはいない。現実にはありえない光景のようだが、実は毎年定期的に行われている台湾の防空演習なのだという。現実に対する認識を揺さぶるということでは、他にないインパクトを与えてくれた作品だ。これもどこかで再展示されてほしいものの一つだ。
以上、長々と書いてきたが、少しでもあいトリの展示の多様さ、豊かさや面白さについて伝われば幸いだ。あいトリはこれを糧に、また3年後も(違ったテーマにはなるだろうが)充実した内容を期待したい。また、これ以外にも全国には優れた芸術祭がいくつもあるので、ぜひ足を運ばれてはいかがだろうか。いつもの旅とはまた違う楽しさが味わえるはずだ。
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