はやみかつとし

晴れ時々超短編書き。文筆家/歩行者・はやみかつとしのホームです。ここでは緩ーいコラムを緩ーいペースで連載予定です。お楽しみに。 超短編を中心にした作品情報などは、Twitter @hayakatsu_news でお知らせしています。連絡・お問合せ等もこちら宛にどうぞ。

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連載コラム 《半可通信》について

観てないようで見てる。見てるようで観てない(笑)。 ものごとを緩ーく渉猟する、文筆家/歩行者・はやみかつとしの気まぐレポート。改めてはじめまして。はやみかつとしです。普段はゆるゆると超短編を書いたりしていますが、ここではコラムを連載する予定です。タイトルは「半可通信」。わかってないことはわかってないなりに、あれこれ考えるのをよしとする、そんなゆるふわ教養主義コラムになるはずです(たぶん)。どうぞご贔屓に。 なお、コラム内では多くの場合、用語に解説へのリンクは貼りません。大抵

    • 《半可通信 Vol. 18》 一分も道理なき悪と物語の危機

       長らく更新を空けてしまった。コロナ禍のせいということにしておく。うん、多分そうだ。  突然だが、NHK大河ドラマの「太平記」が大好きだった。放映を食い入るように観、録画(当時はビデオテープだ)を繰り返し観た。元々そんなにTVドラマや映画を観ない身としては、異例なほどの入れ込みかただった。  もう30年近く前の作品なので、ご存じない方も多いと思う。吉川英治の「私本太平記」を原作に、おそらくはかなり解釈をふくらませて、鎌倉滅亡から南北朝期にかけての社会的混乱を、足利尊氏とその

      • 《半可通信 Vol. 17》 Back to LIFE?

         日常を書こうとすると大抵コロナの話が含まれてしまうのだけれど、今回はコロナが意外なところで風景を変えている、という話から。  近所に気持ちのいい雑木林やのびのび遊べる原っぱなどから成る貴重な緑地があるのだけれど、このところ人の出足が若干上向いているようだ。特にこのゴールデンウィークは、遠出も街遊びも自粛ということで、健康維持と気分転換のために歩きやジョギングで近所を巡る人が増えているのは確かだ。そして、その様子を眺めていて、あるいは彼らと話してみて気づくのは、少なくからぬ

        • 《半可通信 Vol. 16》 新しい文化、新しい慣習

           結局コロナから話を始めてしまうのだが、Twitterでちょっと面白い視点のコメントがあった。漫画家の蛇蔵さんだったと思うが、日本古来の「迷信的」と思われている風習の「物忌み」とか「方違え」というのは、想像するに当初は感染症予防のための知恵だったのではないか、というのだ。なるほど言われてみればその観点からの合理性はあり、水で清めるとかそういうのも同じか、などと思ってみたりはした。一方で、こうした風習は今や形骸化して合理的な意味を失っているばかりか、時として差別的・抑圧的に働く

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        連載コラム 《半可通信》について

          《半可通信 Vol. 15》 もしかして、近未来ウォーク?

           たまには歩いた記録を書きたいのだけれど、時節柄どうしても新型コロナ(車ではない)関連になってしまうのはご容赦いただきたい。とはいえ、感染症対策について考察したり意見を言ったりではなく(それは信頼できる専門家の方々にお任せして)、あくまで歩いて思ったことを書くのだけれど。  このところ、出歩いて道で人とすれ違ったりするときに、お互いにじゅうぶん距離をとろうとする人が多いなあと感じる。もちろん自分は、感染リスクを抑えるために、可能なときはいつでも2mの距離をおいて人と会ったり

          《半可通信 Vol. 15》 もしかして、近未来ウォーク?

          《半可通信 Vol. 14》 文明の転換点、かもしれない。

           新型コロナウィルス感染症で、世界は大騒ぎである。このコラムでそういう内容を扱うのは相応しくないとは思うのだけれど、目下の対策や戦略といったことを少し離れて扱うなら、どうにかコラムの趣旨にかなうかもしれない。  端的な話からしよう。今回のパンデミックは、社会構造やその土台となる価値観を、根底から大きく変える契機になる可能性が高い。個人的には、そう予想している。もちろん、そうならない可能性もあるけれど、ペストの大流行がルネッサンスを胚胎したように、二つの大戦が個人の尊厳と自由

          《半可通信 Vol. 14》 文明の転換点、かもしれない。

          《半可通信 Vol. 13》 空がこんなに青い日は

           抜けるような青空の今日みたいな日(*)には、広い原っぱの真ん中で大の字に寝転がって、雲が形を変えゆくさまを日もすがら眺めていたくなる。ところが残念なことに、今日は強い北風か吹いて、とてもじゃないが何もない野原で吹きっさらしになる勇気は持てない。さらに言えば、そういう場所まで強風をおして自転車に乗って行く気にもなれない。軟弱である。そんなことはわかりきっているのに、それでも原っぱのど真ん中に焦がれてしまう。愚かである。  考えてみれば、空が青く澄んでいることと地上の気温や風向

          《半可通信 Vol. 13》 空がこんなに青い日は

          【超短編】 新刊を出します。

          またもコラムをおさぼりして、今月の文学フリマ東京(11/24(日)、平和島・東京流通センター)に出す超短編作品集の新刊を準備していました。めでたく校了し印刷に回りましたので、こちらで内容の告知を。 今回発行するのは、水にまつわる超短編17編を集めた「水圏 Aquasphere」という作品集です。2007年に瓢簞堂さんに制作・発行いただいて好評を博した(と思う)豆本「水圏」に、新たに5編を追加し、再構成したものです。本記事末尾に表紙写真・目次・本文試し読みページを掲載しました

          【超短編】 新刊を出します。

          《半可通信 Vol. 12.2》 あいちトリエンナーレ歩行記(後編)

           あいちトリエンナーレ2019(以下「あいトリ」)についてここまで2回にわたって書いてきた(前回はこちら)。個人的関心から、どうしても社会的・歴史的テーマに絡んだ展示に多くの紙幅を割いてきたが、それだけではない多様な表現に溢れていたのがあいトリの魅力の核心だったと言っていいだろう。  その意味で特に挙げたいのが、四間道(しけみち)・円頓寺(えんどうじ)エリアに展示されていた、葛宇路(グゥ・ユルー)による「葛宇路」という作品だ。いや、「作品」という呼び方が相応しいのかどうかす

          《半可通信 Vol. 12.2》 あいちトリエンナーレ歩行記(後編)

          《半可通信 Vol. 12.1》 あいちトリエンナーレ歩行記(中編)

           前回に続き、あいちトリエンナーレ2019(以下「あいトリ」)の鑑賞記録にしばしお付き合いのほど。今回は、豊田市を歩くところから。  豊田産業文化センターの敷地内に移築された元料理旅館の「喜楽亭」を出て南へ向かう。豊田市駅から徒歩5分ほどのこのあたりは既に繁華街ではなく、事務所と住宅が混在するエリアだが道は広い。やがて目の前に小高い丘が迫り、そこに続く曲がりくねった道を登り切ってあいトリ専用の臨時駐車場を抜けると、旧豊田東高校のプール跡に出る。ここには数少ない野外設置の巨大

          《半可通信 Vol. 12.1》 あいちトリエンナーレ歩行記(中編)

          《半可通信 Vol. 12》 あいちトリエンナーレ歩行記(前編)

           歩く、といえば先日、閉幕間近のあいちトリエンナーレ2019(以下「あいトリ」)を見て回ったのだった。せっかくなので記録を残しておこうと思う。展覧会鑑賞を「歩き」というのもちょっと無理やり感あるけれど、まあそこは大目に願います。  初日は午後から豊田市エリア、二日目は名古屋市美術館と愛知芸術文化センターを中心に回り、両日とも夕方に「まちなか会場」である名古屋市内の四間道(しけみち)・円頓寺(えんどうじ)エリアを回ったが、作品の感想は順番ではなく、関連を感じたものなどを自由に

          《半可通信 Vol. 12》 あいちトリエンナーレ歩行記(前編)

          【単発コラム】「表現の不自由展・その後」を観て

           あいちトリエンナーレ内の企画展「表現の不自由展・その後」(以下「不自由展」)に対する攻撃・脅迫とその後の顛末について、自分の中ではすべて答えが出ていたが、それでも実際に鑑賞する機会を得られたことは、パズルに形のわかっている最後のピースを嵌め込むような満足感と納得感があった。  まず「不自由展」の内容と印象について。もちろん、どんな展示内容であろうとも原則として規制や検閲はされてはならないのだが、内容によっては厳格なゾーニングが必要だったりということはあるだろう。攻撃者たち

          【単発コラム】「表現の不自由展・その後」を観て

          《半可通信 Vol. 11》 ささやかな日常を頑なに守ること

           このところ世の中があまりに酷いことばかりで、正直言って「ゆるふわ教養主義」を掲げて「歩行者」してられるような気分ではなかった。この国は、どこまで転げ落ちていくつもりなんだろう。みんなそれでいいのか?!  ……いやいやいや、そういう態度がこの場所には一番似合わない。落ち着け自分。  ともかく。そういう日々であっても日課のように近隣を歩いたり、少し街へ出て歩いたり、していたのだが。しかし、とても以前と同じように見ることができないのだ。  一歩家を出れば、のどかな郊外の風景のなか

          《半可通信 Vol. 11》 ささやかな日常を頑なに守ること

          《半可通信 Vol. 10》 Q: 物を書いてないとき、何してる? A: 読んでる(さまざまなものを)

           タイトルが禅問答ですみません。読んでいただければ追い追いご理解いただけると信じます。  文筆家と自称するわりには、書いたり書かなかったりの波やムラがあるのは自分でも自覚がある。ただ、どうもこれ、自分にとって「書くこと」とは何なのか、というところに原因がありそうな気がしている。  文章を書く、ということは、伝える、表現する、主張する、といったことだと通常は理解される。だが自分にとってはそれは結構二次的なものであって(不必要ということではないのだが)、書くことのもっと根本的な

          《半可通信 Vol. 10》 Q: 物を書いてないとき、何してる? A: 読んでる(さまざまなものを)

          《半可通信 Vol. 9》 言葉が現実をつくる

           今回の参院選そして選挙後、いろいろトピックがありすぎて、正直疲れている。でも疲れて投げ出したらそこで民主主義終わるかもしれないし、なんだか這いつくばって踏みとどまってるような感じだ。いかん、これって全く「ゆるふわ」「教養主義」じゃない。  とはいえ、土台が崩れかけてるときに土台より上の話ばかりできるわけもないし、そう考えればこの状態はむしろ自然なことかもしれない。  と、以上言い訳をして、ちょっと時事的な話題から始める。  知識欲が旺盛で真面目な昭和の会社員だった父親が晩

          《半可通信 Vol. 9》 言葉が現実をつくる

          《半可通信 号外:2019.7》この場所では語らないことについて、一度だけ語っておく

           われながら残念なくらい大仰なタイトルだ。でも、これを語るなら今を措いてないだろうと思うので、あえて。  なにしろ「ゆるふわ教養主義」を標榜している本コラムなので、ここではローカルで個別具体的な事象をもとに自由に連想し、そして結論を急がず留保することを旨としている。というより、何らかの箍を嵌めないと話をまとめに行きたがる、そういう自分を縛めているようなものかもしれない。  それでも、どうしてもこの場で一度触れておきたいことがあった。それは、「権力者によってこの国の言葉がどん

          《半可通信 号外:2019.7》この場所では語らないことについて、一度だけ語っておく