《半可通信 Vol. 17》 Back to LIFE?
日常を書こうとすると大抵コロナの話が含まれてしまうのだけれど、今回はコロナが意外なところで風景を変えている、という話から。
近所に気持ちのいい雑木林やのびのび遊べる原っぱなどから成る貴重な緑地があるのだけれど、このところ人の出足が若干上向いているようだ。特にこのゴールデンウィークは、遠出も街遊びも自粛ということで、健康維持と気分転換のために歩きやジョギングで近所を巡る人が増えているのは確かだ。そして、その様子を眺めていて、あるいは彼らと話してみて気づくのは、少なくからぬ人たちが、普段見過ごしていた近隣の良さや豊かさに気づきはじめていることだ。
つまり、今まで以上の人たちが休日のたびに緑地を訪れ、思い思いのやり方で楽しむという風景が、このまま定着するかもしれないのだ。
実は、生き方が変わるんじゃないか?
いや、踏み込んで言えば、みんな「何のために生きてたのか」思い出しつつあるんじゃないか?
緑地だけに限らない。ピカピカに磨かれた自家用車、自宅の前でのリフティングやエクササイズ。どれも「生きてる」って感じがする。もちろん本当はその裏で皆、出口の見えない不安を押し殺している。でもその一方で、これをきっかけに、生きるってこういうことだったんだ、ってことに目覚め、これまで当たり前だった毎日の過ごし方を見直し始めているように思えてならない。
一斉に通勤して一斉に仕事をする。一斉に休みをとり一斉に行楽に出かける。もしかしたら、そんな生活のルーチンは何かの強迫観念で自動的に繰り返しているだけで、本当に望んでいるものでないばかりか、合理的でも効率的でもないんじゃないか? そんなふうに思い始めている人が、結構いるんじゃないか。まあ、希望的観測も込みではあるけれど。
この国は長いこと、合理的思考と合議的解決法を受け入れるふりをしながら、そうでない因習と同調圧力と力関係による問題解決をひっそりと維持してきた。だから、出社時間の分散化は進まず、時間外労働は減らず、決断力がなく責任も取らない企業トップがあちこちで君臨しつづけた。しかし、全世界が同時に直面した同じ敵、新型コロナウィルス感染症の前では、そういうガラパゴス的な最適化が無力であり、人々を幸せにしないことが白日のもとにさらされた。そういうことではないだろうか。
思わぬかたちで、多くの人々が忘れかけていた生のかたちに気づきつつあるのだとしたら、この国の社会のありかたに深いところから地殻変動を起こすきっかけとなるかもしれない。もちろん、そうはならず反動でより息苦しい世の中になる可能性は否定できない(震災後はまさにそうした動きだったと思う)。だがそうだとしても、今このときにつかんだこの感触を繰り返し語り、記録し、明瞭なまま残していくことが、そうした反動が起ころうとしたときにも大きな武器になるはずだ。
めちゃめちゃ大上段に語るなら、「ゆるふわ教養主義」とは、そういう時のために敢えて遠回りの、目的地のわからない思索を積み重ねることなのだ。