《半可通信 Vol. 6.1》 続・歩行者日和、または見えない水路を辿る旅
前回は、神田上水跡を歩こうと思って取水口跡付近の地図を見たら、神田川へ下る南斜面に気を取られて上水跡までたどり着かなかったお話だったので、今回こそはその本来の本題を。
自然流下方式の上水道を造るには、川から分流した地点から徐々に川より高い位置を流れ、最終的には丘陵や台地の尾根筋を流れるようにする必要がある。玉川上水などはそのように造られていて、多摩川もかなり上流の羽村で取水して、小平・小金井のあたりでは武蔵野台地の上の分水嶺となるところを選んで、都内は四谷大木戸まで流れていく。しかし神田上水は取水地点が都内も都内、今でいう文京区で、しかも前回描写したとおり20m近くある険しい崖のすぐ真下。いったいどうやって街々よりも高いところに持って行くんだ?
そんな疑問、というか関心事をもって、関口大洗堰跡から探索スタート。数百メートルほどは北側の崖が続き、上水は神田川本流のすぐ隣りを並走していたようだ。江戸川橋まで来ると、ようやく崖が途切れる。音羽の谷との合流地点で、少し平地が開けている。ここで神田川本流と別れて、少し北側へ逸れて行く。ここももちろん水路は既に埋め立てられていて道路となっている。旧町名が「水道端」だったり、通りの名前が石で蓋をして暗渠にしたのが由来の「巻石通り」だったりと、地名にその名残があるのは楽しい。
神田川から離れたといっても、少し幅が広くなった神田川の谷の北端を流れているだけなので、本流のほうを見やると1〜2m程度しか高低差がない。こんな感じで1kmほど、台地の縁の下に沿ってうねうねと曲がった、傾斜のほとんどないなだらかな道が続く。ちなみに、この北側は小日向台地という一帯で、やはり南向き斜面の一等地。現在は瀟洒な住宅地になっている。地名の由来には諸説あるが確証はないらしく、であればやはり南面の日当たりのよさに由来するのだと考えたくなる。
そして旧上水跡の道路は、左右に緩やかにくねりながら、ほとんど高低差なく、ひたすらのんべんだらりと続く。……正直、そんなに面白くはないぞ? でも、よくよく考えれば仕方のないことだ。何故なら、自然流下方式の水道は間違っても上ることがないように、かといって急速に下ることもないように造られた、いわば中庸中の中庸のようなもなのだ。むしろその絶妙な低勾配ぶりに感心せねばならないだろう。
さて、旧上水跡は小石川後楽園にぶつかると、一旦その中に入る。この庭園内には当時の水路跡があるらしいが、時間切れにつきパス。そして、神田川を越えて南側に上水を渡すための「掛樋」があった場所まで行く。ここは水道橋駅の少し東側で、碑が立っている。駿河台と本郷台地の間に切り開かれた神田川の放水路の上に水道専用の橋を架けて、ここから江戸市中に水を供給していた。水道橋という駅名もこれに由来する。が、……ここって、さっきまで追ってきた流路よりも少し高くなっていないか? 自然流下方式なので、絶対にそんなことはないはずだが……。少し周辺を行ったり来たりし、歩いてきた方を眺めて確認もしたのだが、やはり一旦下ってから上っているように見える。もしかすると、下ったように見えるのは、土地を削って低くして今ある道路を通したものかもしれない、と思ったが確証はない。その場でスマホで調べてみるがこれといった情報もなく、もやもやしたまま探索行は終了。
感想: どこかで一度は、たとえ低くても尾根筋っぽい場所を通るかと思いきや、台地の裾の等高線をひたすらなぞる地味な行程は意外。最初の上水道ゆえの地味さか。とはいえ、等高線に沿って水路を引くのは、下手をすると尾根筋を選んで引くのより難しい側面もあるのでは? そんなわけで、謎は残りつつも、江戸初期の技術の粋に感心することしきりでありました。