《半可通信 Vol. 13》 空がこんなに青い日は

 抜けるような青空の今日みたいな日(*)には、広い原っぱの真ん中で大の字に寝転がって、雲が形を変えゆくさまを日もすがら眺めていたくなる。ところが残念なことに、今日は強い北風か吹いて、とてもじゃないが何もない野原で吹きっさらしになる勇気は持てない。さらに言えば、そういう場所まで強風をおして自転車に乗って行く気にもなれない。軟弱である。そんなことはわかりきっているのに、それでも原っぱのど真ん中に焦がれてしまう。愚かである。
 考えてみれば、空が青く澄んでいることと地上の気温や風向風速には、それほど有意な関係はない。季節が違ってしまえばおのずと気候は異なる。空が青いなら雲を眺めに野に出たい、という渇望は、そうした現実的な条件を無視した、非合理的な衝動ということになる。そしてたぶんこれは美への渇望で、美への渇望とはこういうものなのだ。
 とりわけ、自然の美は冷酷だ。というか、むしろ人間のことなど何も構っていないから、ときに人間に残酷なものとなる。究極の自然美を見るために、命がけで赴かなければならない場所は多い。空にしても、あの白い絹雲が刻々と姿を変える上空は、気温マイナス数十度、0.3気圧程度の、人間にとっては死の世界だ。その美を、たまに地上からのんびり、陽だまりでぬくもりながら見上げることができること自体、奇跡であり恩寵なのである。
 さて、野原を諦めて、暖かいシェルターから空を眺められる場所を求めて、閑静でゆったりとした住宅街をさまよった私は、幸いにして風の穏やかなテラスのあるラウンジを見つけ、そこに陣取ってカフェラテと焼菓子をいただきながら、雲を眺めることができた。いつ見ても、あの綿毛のような雲の切れ端が死の世界だと考えると、不思議な気分に満たされる。と同時に、自然美に限らず、美というものがそもそも「人間を突き放した何か」なのではないか、と思ったりもする。
 ……美は冷酷である、しかし美は裏切らない。なぜなら、美は最初から人間の期待などかけらも気にかけていないからだ。そう思うことで、不思議と心が穏やかに静まり返る気がする。

*註) 2020年1月31日。東京は晴れ。

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