本当に書きたいことを伝えるにはどうすればいいんだろう
noteを書こうとして、『投稿』のボタンを押すと、下書きが新しい順に表示される。ご丁寧に、〇分前、〇時間前、〇日前、と表示してくれる。ありがとう、でも少しいらないお世話です。そう思いながら、数秒迷って、結局いつも新規ノートを作成する。
そんなことを、何度も繰り返している。
毎日noteを初めて、今日で22日目。三日坊主もびっくりの飽き性な自分にしては、良く続いている方だ。しかし不思議なことに、『投稿』ボタンから記事一覧へと飛ぶと、33件と表示されている。公開中が23件、下書き状態が10件。昨年の12月26日に作成された下書きに至っては3件もある。
まいったな、ちょっと整理でもせねば。
そう意気込んで一つずつ覗いてみた。
・劣等感の話。
(本屋で著者の年齢を確認してしまう己の愚かさについての話)
・餅巾着の中身の話。
(幸せって、ぼんやりしていて考えてみると何かわからないって話)
・ペッポじいさんの話。
(『モモ』に出てくるペッポじいさんの偉大さは大人になってからわかるっていう話)
・庭のライラックに話。
(全然咲かないのになぜか枯れない誕生木の話)
・和歌をあやつる魔女の話。
(恩師が最高な人だって話)
・中学生のガンの話。
(自己形成と病についての経験の話)
まいった。
なにも、削れないではないか。
そうして今日も、下書きの上をいくつか渡ったあとに、新規作成でこの文を書いている。
〇
noteに『熟成下書き』というタグがある。熟成させるくらいなら、未完成でも不十分でも満足いかずとも出してしまえばいいのに、なんて、恥ずかしながら思っていた。しかしまぁ、一月も経たずに熟成下書きが山を為しているではないか。どうするよこれ。
夕飯を食べて諸々が終わり、母も父もリビングからいなくなった十時頃に、毎日ちまちまとパソコンのキーボードを叩いている。院への進学を機に購入したsurface goは持ち運びがよくて便利だ。研究用にするはずが、今では専らnote用である。嗚呼、休学。
さて、今日は何を書くかと、下書きを開く。そこにはずらりと並んだ、『大切なこと』たち。
そう、ごく当然のことではあるが、熟成される下書きというのは、どれも私が『本当に書きたいこと』なのだ。
本当に書きたいことって、難しい。感情や熱量が高すぎて、なにから書けばいいかわからない。試しに小説やエッセイっぽく、情景描写から入ろうとする。例えば、こんな感じ。
「ああ、それは豊かなことですねぇ」
先生は、そうおっしゃった。
暖房のかかった四月の教室。お昼ごはんの後という、眠気がピークに達する時間。面白くもない自己紹介続きでぼんやりとしていた頭が揺り起こされたのを感じた。
豊かなことですね。心の中で、何度か繰り返す。
そんな、綺麗な言葉がこの世にあるのか。知らなかった。
豊かなことですね。
そんな、優しくてときめくような言葉を、どうやったら作り出すことが出来るんだろう。
この人のように、なりたいと思った。
それが、わたしと和歌をあやつる魔女との出会いだった。
実際に眠っている下書きだ。ちなみにこの形になるまでに、既に三回書き直されている。しかし、陳腐だ。いかにも、陳腐だ。
私が考え付かないような深みのある返しをする先生に、心底感動して惚れた、出会いのところからだが、うまいこと書けない。
私は、自分の恩師を心の底から尊敬しており、恩師のような大人になりたいと思っている。社会に出る前の大学生時代に(厳密には今も私は社会進出はしていないのだが)、先生の言葉を聞ける場所にいたことは、人生の宝物だと思っている。
しかし、この表現ではあまりにも陳腐だ。なんだか長いし、このあとに続く話も、ハッとするような書き方が思いつかない。冗長な気がしてならない。困った。
こうして、今日も先生の話はnoteの下書きで眠ることになる。
まぁ、今日は病院に行き、メールもして疲れているので、また明日。
そんな言い訳で、本当に話したいことは、どんどん埋まっていくのだ。
ちなみに、病院帰りの喫茶店で、こんなものも書いてみた。
「人生に躓きました」
午後三時のタイ料理屋は空いていて、店全体を名前の知らないスパイスの香りが包んでいた。16時までやっているというランチを頼み、一年ぶりにお会いする先生と、乾杯をしたあとに、そう切り出した。
うーーーーーーーん。どこかで、読んだことある。
別に、タイ料理屋とかどうでもいいのだ。いや、良くはないけど。御馳走になった生春巻きとバナナの揚げ焼がとてもおいしかったのだけれど。先生のランチについてきたトムヤムクンスープを頂いたら辛くっておいしかったのだけれど。
そういうことじゃない。
〇
結局、自分の文才に多くを求めすぎなのかもしれない。大切なことを書くときは、やっぱりいろんな人に読んでほしいのだ。私の人生について、こう思った、こう考えた、あなたはどう?そんなことを、いっぱい読んでほしい。でなくては、web上に公開なんてしない。
しかし、上手にかける気がしなくて、大事なものという自分のカードを切るのが怖いのかもしれない。見向きもされなかったらどうしよう、そう思ってしまうのだ。無駄だなあ。
上の二例だって、タイ料理やも、昼下がりの教室も、どうだっていいのだ。私は先生が「ご本には挨拶なさい」って言った話や、「卒論を本気でやって、私はこれについて誰よりも知っているって思えることが、人生の糧になりますよ」って言った話や、「これまでの20年は周りの環境に作られたお顔ですが、つぎの10年は自分で自分の顔を作る10年ですからね」なんておっしゃった話がしたいのだ。
それなのに、無駄にドラマチックにしようと文を修飾してしまうのは、なんだろう。
本当に伝えたいことを伝えるには、どうすればいいのだろうか。
〇
そういえば、先日ダッシュボードでアクセス数が確認できることを知った。見て見ると、なかなか面白い。興味深いのは閲覧数と♡が必ずしも比例しないところだ。それと、情緒に任せた文は、多少伸びがいい。
でも、情緒の傷口から血をドバドバだして書きなぐった血文字みたいなエッセイは、望んでやるものではない。泣きながら書いた文が人に刺さるのは当然なのだ。皆泣いている。涙は涙を呼ぶ。
それ自体は悪いことでもなんでもないが、そうじゃなくても、人に届く文を書きたい。
世界の隅で、私が考えたことや、貰った言葉を誰かに伝えたい。ここにいます、大きな海に、手紙を詰めた小瓶を放るのと同じ感覚。
それには、精進せねば。
やはりまずは、熟成される下書きを書き上げるしかないだろう。
暗中模索、よいやり方があればご教授願いたい。
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