来たる残暑お見舞い申し上げます
まずは納涼画像をどうぞ。
いよいよ夏本番だというのに梅雨の中休みの猛暑で既に汗疹をこじらせ、今年も無事に越夏できるのだろうかと思っていた初夏の候もあっという間に過ぎ去り、立秋を迎えた今は来たる残暑をどう凌ごうかと考えたくもないわけですが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
我が家はエアコンと扇風機の併用でなんとかやっております。不要不急の用事以外は控えるということもコロナ禍で実践し、それでさしたる問題はないことが分かったわけですから、昨今の酷暑もそういった方法でなんとか乗り越えていけるかもしれません。そもそも外の世界にキラキラを求める生き方をしていないからでしょうか、コロナ禍だろうが猛暑だろうが汗疹以外の懸案事項はなかったというのが実のところです。
太陽が昇りきる前であれば、猛暑と言えどある程度の涼は味わえます。
朝はなにより静かで、湿気を帯びた雑木林の中を歩くと青々とした植物の匂いもはっきりとわかります。初夏の頃は、風が少し先のオニユリの香りを運んできました。今であれば、くたびれはてた蝶があちこちで微風を起こしています。本当にこれがあのバタフライ・エフェクトを起こすのだとすると、塵積だなあと思います。
ある日のこと、オニユリの香りを辿って行くと、ぶーんと大きな羽音が聞こえてきました。一瞬身構えました。この時期の大きな羽音はスズメバチということもあります。見上げるとクマバチでした。スズメバチほど狂暴ではないため、ほっと胸をなでおろしました。
ところがクマバチは、頭上でホバリングをしながら後ろ脚をこすり合わせてこちらに何か落としてきました。続いて大きな羽音で急接近してきたり、数十センチまで近寄って睨んできたりと、威嚇と思われる行動を繰り返しました。これはこちらが彼らの縄張りに入ってしまったか、食事の邪魔をしているということなのだろうと思い、
「めっそうもございやせん。こちとらオニユリを取ろうなんて思ってませんで」
と言い返しましたが通じませんでした。江戸っ子ではなかったのでしょう。いや、そうではなくて、私もまだまだということです。虫は人間の言葉を分かろうなどとは思わないのでしょうから、努めるのは自ずとこちらになります。
更に涼しげな写真を挟みつつ、汗疹に軟膏も塗りつつ、この記事の投稿こそこれ以上ない不要不急案件だと分かっていながらも本題に入ろうと思っていましたが、もう一つお伝えしたいことがあります。なんと先日投稿した『読まれた記事ランキング TOP20』(注1)がすでにトップ5入りしました。快挙です。嬉しい限りです。せこせことリンクを貼ったかいがあったというものです。何を書けばアクセスが増えるのか知りたい人が多いということなのかもしれません。
ランキング記事がランクインした結果、なんと我が短編小説がそのままスライド式に押し出され、順位を下げる始末です。
得ましたねぇ。失いましたねぇ。
アクセス数のことを考えるなら、記事はこのようにまとめたりせず、それぞれ独立した記事としてこまごまと投稿することが良いようです。過去記事にも読者を誘導するために記事内に過去記事のリンクを貼るといいですよというnote推奨のコツも、そうすることでより一層効果的になるのでしょう。しませんけど。
今回も長丁場になりますので、いい加減本題に入ろうと思いますが、まずは記事のトップ画像の威力についてお話ししようと思います。
注1 『読まれた記事ランキング TOP20(2024年6月吉日)』記事を参照されたし。
トップ画像を変なのにする
記事のトップ画像を変なものにするという試みをした。
投稿頻度を落とす代わりに、トップ画像をインパクトのあるものにしてアクセス上げるという作戦に出てみた、と書くとそれっぽいがなんのことはない。Canvaの無料素材のみを使うため、おかしな画像に仕上がっただけのことだ。
トップ画像とアクセス数の相関性は、先日投稿した『よく読まれた記事ランキング TOP20』からも見えてくる。上位にはトップ画像が変な記事が並んだのだ。それで記事がちゃんと読まれたのかは(記事をクリックしただけで1とカウントとされるため)不明だが、アクセス数が増えたことは増えた。せめてユーザがその記事の画面にどのくらい滞在したのか分かれば、読まれたか否かぐらいの察しはつきそうではあるが、そんな日は来ないだろうと踏んでいる。
noteでnoteユーザがその記事を開くか否かを判断する時に見る(または参考にする)のは、トップ画像、記事のタイトル、スキの数になるのだろう。仮にスキの数を(少なくともnoteのホーム画面では)非表示にしたら、より一層フェアになるんじゃなかろうか、スキの数は読む側の判断を鈍らせてしまっているのではなかろうか、でもビジネスですからねぇ・・・・・・、ビジネスは相手を鈍らせとかないと引っかからないからねぇ・・・・・・、なんてことを閑古鳥相手にぼやいてはいないからどうぞご心配なく。
記事ランキング
冒頭でも書いたが、読まれた記事ランキングの記事が第4位に急上昇している。一位だったRickさんの著書レビュー記事(注1)も変わらずの一位で、更にアクセスを伸ばした。二位との差はとうとう二倍になり、現在も二位以下をどんどん引き離している。
Rickさんのぶっちぎり一位を祝し、主にYouTubeのインタビュー動画から参考になりそうなRickさんの言葉をいくつかここに残そうと思う。
これは駆け出しのコメディアンに向けて何かアドバイスは?と聞かれた際にRickさんが即答した言葉。私はコメディアンではないが、駆け出しであることに変わりはないということで参考にしている。「誰の言うことも聞くな。自分に忠実であれ。」というのは捉えようによっては極論のようだが、Rickさんが実際にその話をするYouTubeショート動画 “Rick Rubin on Putting Yourself First”を観るのがよいように思う。これを観て、それでもそんなの自己中だとか思うのであれば、言葉尻に引っかかっているだけかもしれない。ちなみにだが、これと似たようなことを言う日本人アーティストもいる。つまりアメリカだからとか日本だからといった国の違いによるものではないように思う。
これと併せて“Why Advice Is Overrated”動画も観ると、より一層Rickさんの言わんとすることが分かると思う。とはいえど、それでも断片的ではある。これを観ても、「いかなる時も何がなんでも誰の言うことも聞くなってこと?」と思うのであれば、思っても構わないが、そういうことを言っているのではない。
これもRickさんが折に触れて発する言葉。
一言で言うと、限界を超えていくこと。それには世間の常識やノームなんかはまとめてうっちゃる必要も出てくる。くれぐれも言っておくがRickさんが言わんとすることは、反社会的であれなどということではない。このあたりを混同しないほうがいいと思う。
ご自身のエピソードで言うと、ラップミュージックのプロデューサーとしてすでに成功していたRickさんが初めてメタルバンドを手掛けた時、ラップのプロデューサーなんだからできっこないと言われ、いざメタルのプロデュースに成功して別のジャンルのプロデュースに挑戦しようとすると、ラップ/メタルプロデューサーなんだからできっこないと言われ・・・・・・というのを繰り返し、現在でも何か新しい試みをしようとする度にそう言われるとのこと。Rickさんほどの成功をしている人でも未だにそんなこと言われるのかと驚いた。
Rickさんはこの件について、できないんじゃない、まだやったことがないだけだ、と言っていた。その通りだと思った。
自分の限界を超えていくことは、ライバルと競うことよりも容易かというと全くもってそんなことはないように思う。結局のところ、一番の強敵は自分自身だったりするからだ。なにしろ挑戦し続けることになるし、それでも信じて突き進むということでもあるが、必ずしも賛同を得られる保証などなく、(それがだめだとは思わないが)意図的に奇をてらうのとも違うように思うわけで。
結局のところ、“Don’t listen to anyone. Be true to yourself.”と“Push the boundaries”はセットなのだろう。もちろんいばらの道ではあるが、それでも楽しむことはできる。
ここで最新のRickさん情報を一つ。
RickさんはYouTubeにTetragrammaton with Rick Rubin(テトラグラマトン ウィズ リック・ルービン)というインタビューチャンネルを持っている。ポール・モーリアの恋は水色(注3)という曲に乗せて始まり、恋は水色と共にフェードアウトしていく構成となっている。自身がナレーターを務める途中CMはレトロ感あふれ、飛ばさずに聞いてしまう。音声だけの番組であったが、先週から映像ありになっている。自身の所有するシャングリラ・スタジオの庭先で録画しているようで、それがまたいい。記念すべき映像ありの初回ゲストはBaebadobeeさんという若手ミュージシャンとなっている。
さて、Rickさんは終始聞き役に徹し、時々する質問も小気味がいい。長いものだと二時間を超えるインタビューとなるが、話が自然と収束するには一時間以上は必要なのだろう。それで結果的に満足度の高いものとなっている。
面白かった回は?と聞かれてまず思い出すのは、俳優トム・ハンクスさんの回と菌の世界を研究をする生物学者Merlin Sheldrakeさんの回。トム・ハンクスさんの回はインタビューと言うより物語のようで、トムさんが語り出した途端に世界が出来上がる。Merlinさんが研究する人知れず営まれる菌コミュニティが自然界や人間界に何を及ぼしているかなんて、そんなの面白いに決まっている。何がいいかというと、目に見えないから、人間が知覚できないからと言って、ないわけじゃないところ。たぶん私は人の創り出す世界観に興味を持つのだろう。
登場するゲストの幅はとにかく広い。ミュージシャンが多いかと思いきや、むしろそれ以外の分野のゲストのほうが多い。
さてどれから観たものかと迷ったら、まずはEpisode Clipsという切り抜きを集めた再生リストとショート動画を観てから本編を観るのもいいと思う。各動画の概要欄のゲスト紹介文も参考になる。
注1 ブックレビュー記事『The Creative Act: A Way of Being』を参照されたし。
注2 Push the boundariesの意味 → 英語 日本語 ご参考まで。
注3 筆者が小学生の時に器楽部で演奏した曲だった。ちなみに担当はソプラノ・アコーディオンだった。
筋金入りで溢れる早朝の川沿い
あまりにも暑い日が続くため寒い話をしようと思う。
コロナ禍のこと。なぜか普段はしないことをしたくなったのは、恐らく私だけではなかったことだろう。
コロナ禍となった最初の冬、早朝ウォーキングを始めた。
まだ暗いうちに家を出て、冷気で耳と頬が痺れるほどの日もあったが、帽子とマスクでうまいこと凌げた。街灯の下に差し掛かかると吐く息が白いのが分かり、これはもう一旦走るしかないと、最初だけ走ることもあったが、そうか足を痛めていたんだっけと思い出したりもした。
さてどこに向かうかと迷うことなく川沿いに向かった。
ウォーキングは川沿いがいい。信号が少なく、止まらず真っ直ぐに歩けるからだ。
川沿いに着くと、そこは筋金入りの宝庫である。
日の出前に川沿いで運動するぐらいだ。相当な筋金入りだ。短距離走並みのスピードで走る人、後ろ向きで歩く人、ディジュリドゥを演奏する人、鷹を操る人(鷹匠)、ジャンプスキーの飛び立つタイミングを練習する人、食用の草を摘む人、鳩に餌づけをして手なずける人、明らかに散歩のような歩き方なのに「お散歩ですか?」と聞かれない人(私)など、それぞれがそれぞれのペースで川沿いを行き交っている。そして誰も誰にも興味がないというところがいい。ここにはヤボなツッコミ担当などいないし、そういう手合が活動するには朝早すぎる。とてもいいことだ。
ちょうど帰る頃に日の出となるが、これがまたいい。雲の向こうが明るみ始め、最初の光の点が現れる。点は次第に大きくなり、あたりを明るく照らし始める。雪を冠した富士山は桃色に染まり、黄色い土手の芝が金色に輝く。
二句詠んでしまうほどの光景に遭遇する日もあった。
それで現在はというと、日の出後に歩いている。「お散歩ですか?」と聞かれるのは日の出後に歩くようになってからで、私はそう聞かれるたびに「ウォーキングです」と一応訂正する人となっている。時間帯が変わるとソフトコア層が台頭し、聞かれる質問の軟度も高くなる。
早朝に歩かなくなったからといって、いつもと違うことがしたくなることに変わりはなかった。公園の鉄棒で斜め懸垂をした時のこと、10回を終えたあたりで右肩がピキっを小さな音とたてた。にもかかわらず、痛くなかった。つまり痛がってもしょうがないということで、更に20回続けたところ、翌日肩が上がらなくなった。しばらく整体に通うことになり、初バードウォッチングで痛めた膝と更に古傷の雪かきで痛めた腰も診てもらった。負傷遍歴はどれも不要不急案件が原因だった。それどころか何一つ武勇伝として語れるものがなかった。だからなのか、倒木三部作なんて小説を書いてしまったのは。
そしてもう一つ気づいた。
寒い話というよりは痛い話だったかもしれない。
ここで10分間の休憩です。
お茶は各自ご持参ください。
コンフォートゾーンから出てみる
ちょっと出てみたりしている。
具体的には、小説の下書きは手書き派である私がパソコンで書いてみるということで、ショートショートなどの短い作品などはそうしている。やってやれないことはなかった。結果的にその作品が面白いかはどうでもいい。ゾーンから出ることが目的なのだから。
紙に書くことは眼精疲労を軽減するためでもあるから今後も続けると思うが、ショートショートなどの30分~1時間以内で書き終わるようなものは、パソコンでもいいかもしれない。なんてことを、黄色い世界(注1)で思っていたりする。
注1 以前も書いたが、眼精疲労予防のためパソコン作業中は画面をナイトモードにし、ブルーライトカット眼鏡をかけているため、かなり黄みがかった世界にいる。長く使っていたブルーライトカット眼鏡がだめになって新調し、以前よりブルーライト遮断率が高いものを購入したため、ますます世界が黄みがかっている。短編小説『ルチアーノ -白い尾のオナガ-』に登場するボスオナガのティランノは「黄色は余計だ」と言い捨てたが、私にとって黄色はありがたいものとなっている。
変わりモン、変わりモンと遭遇する
花名人
すっかり散ってしまったが、芍薬が綺麗だった。
あの堂々とした咲きっぷりは、ほぅっと見入ってしまう。つぼみもまたいい。ふっくらと丸く、雪原でふくれたライチョウのようである。
ウォーキングがてらこの時期にちょくちょく寄る芍薬スポットに着くと、高齢の男性がぽつんと立っていた。手には紙と色鉛筆を持っている。花好きの御仁かと、私は躊躇なく話しかけた。聞くと、散歩がてらにハガキサイズの画用紙と色鉛筆を持って花や風景を描いているのだそうで、毎年この芍薬スポットに咲く菖蒲の写生をしに来たが、お目当ての菖蒲が終わってしまっていたとのことだった。花壇の脇に目をやるとこれから咲く菖蒲のつぼみがあったから、これから咲くものもあるようですよと元気づけ、近くの公園で咲き始めた睡蓮も綺麗でしたよと代案を出してみたりもした。
あれこれと情報交換したが、御仁もなかなか詳しかった。鳥名人(鳥情報に詳しい人の意)もいれば花名人(花情報に詳しい人の意)もいるのである。
すると御仁は、少し照れたように切り出した。
「年寄りの変わりモンでね」
「いえいえ、そんな。素敵なご趣味です」
あなたの前にいるのも負けず劣らずの変わりモンですから、どうぞお気遣いなく、と喉まで出かかったが、いや、つまりこれは私が変わりモンだとまだバレていないということで、このままうまいこと乗り切れば一切そうと気づかれることなく終われるんだから、なんてことを考えながら、御仁の作品を一通り見せてもらった。中でも、旅先で描いたという手前に灯台があってその先の海の上で沢山のカモメが飛び交う秋の夕暮れ時の絵は素晴らしく、思わず見入ってしまい、どこの灯台だったか聞いたにも関わらず忘れてしまった。いつかどこかの花スポットで再会し、聞けることを祈ろう。
嬉しかった。
偶然出会った見ず知らずの人の中にこんなに綺麗な景色があることがとても嬉しかった。
世に溢れる変わりモン
もしかするとその花名人は、過去に誰かに変わりモンと言われたことで自ら変わりモンと名乗るようになったのかもしれない。しかし公園や景色のよい道端で絵を描いている人というのは結構いるもので、私はそういう人を変わりモンだとは全く思わないが、それは自分も変わりモンだからなのかもしれない。変わりモンは、ちょっと変わっているぐらいの人を変わっているとは思わないし、そうと気づきもしない。大抵の場合は「それもあるよね」、「言うほど(変わりモン)かな?」ぐらいの認識である。言ってしまえば、世の変わりモンを自称する人の多くは実は変わりモンでも何でもなく、そういった意味では私も大した変わりモンではないことになる。さらにここに変わりモン特有のツボのずれや方向性も関与してくるわけで、溝と謎は深まるばかりである。しかしそんなことも変わりモンは気にもしていない。
不思議なもので、世の中には頑張って変わりモンになろうという、いわゆる一つの個性とおぼしきものを発揮して頑張る人がいる。真の変わりモンの苦悩を知らぬゆえであろうが、アピールした時点でもはや変わりモンではない。いわば努力型変わりモン、あるいはビジネス変わりモン、それは結局変わりモンもどきでしかなく、ナチュラル派変わりモンからは容易にそうと悟られる。ファッションによる主張や箔付けなんかがその一つかもしれないが、むしろそうやって自らハードル上げちゃってどうするんだろうと思う。変わりモンというのは、(ざっくりとした一般的な意味合いでの)無個性とされるようなファッションをしていても隠しきれるものではない。配慮としてあえて隠している者もいるが、隠せていると思っているのは本人だけだったりすることも多い。付き合っていけばバレるものでもある。これもしょうがない。変わりモンなのだから。
予防線
私は変わりモン代表ではないし、変わりモンと自称している時点で真の変わりモンかどうか疑わしいものではあるが、一応それなりの変わりモンとして言いたいのは、自らを変わりモンであると宣言するのは謙遜からで、そこには照れと相手をびっくりさせないようにという配慮がある。驚くなかれ、人は変わりモンにびっくりするのである。それを分かっているため、むしろそれ以上近寄らないほうがいいかもしれませんよ、私はあなたが思ってるような人じゃないですからね、という気遣いをしたりする変わりモンもいる。
「あ、そうそう、私変わりモンですけど大丈夫?」
とでも伝えればすぐに済む。例えば、相手が異性(私の場合は男性のこと)であれば、淡い恋心程度であればあっという間に海の藻屑、あるいは百年の恋であっても結構あっさり冷めるものだ。「変わりモン」の一言でさっと引いていく人を男女を問わず何人見送ったことだろうと、数えることさえしなくなったが、夢から醒めてもらうのならば早いに越したことはない。多くの男性は自分の恋愛対象が変わりモンだと知ると身構えるし、それがどの程度でベクトルがどっちに向いているのかという未知の恐怖に耐えられないため、「そんなはずない」とか、「そうであってくれるな」とか、「友達に紹介しても大丈夫そうなら」とか、「自分の社会的立場が揺るがされない程度であるならば」とか無駄に希望を抱きながら必死に観察や質問を開始する。そして敗れ去る。
女性同士の交友で言えば、「ほんとに私でいいの?」とでも念を押せば静かに去っていく。本当にこんな変わりモンの私と関わりたいのか、その覚悟はできているのかということを突きつけられると、
「そうかもしれない。私、男見る目もないからなぁ」
といった別の思い当たるふしもあったりして、途端にそんな変わりモンを友人として選ぼうとする自分に自信がなくなり、去るという正しい選択をする。
時にはそれでも変わりモンと関わりたいと思う者もいなくはないが、結局「変わってるよね・・・・・・」と言い残してフィードアウトしていくことが多い。だから言ったでしょうが、というのがこちらの言いぶんではあるが。
しかしお忘れいただきたくないのは、変わりモンが一方的に拒まれることの方が圧倒的に多いということだ。だからあなたが変わりモンの一人や二人とうまくいかなかったからといって、何ら気にすることはないのである。
意外と何も起こらない
今回の花名人との遭遇からも分かるように、変わりモン同士が遭遇しても必ずしも何か起こるわけではない。大抵の場合、大した化学反応は起こらない。どちらか一方、あるいは両者が実は変わりモンではないからだ。また、世の変わりモンは変わりモンとして生きてきた実績から、普通に振舞うことのできる社会性を持ち合わせた者もいて、これも何も起こらない理由の一つである。だったらずっと普通にしてればいいじゃないのと思うかもしれないが、労力を要するのだからそれは難しい。
変わりモンは人から避けられたり、周囲から遠巻きに見守られることが常だが、必ずしも嫌われモンではない。ただ、変わりモンはあなたの思った通りにはならない生き物であるから、いや、そもそも人はあなたの思い通りにはならないのだから、何かとすぐに「めんどくせー奴だな」と思いがちな人は変わりモンとは一定の距離を置くことが推奨される。
はっとしたそこのあなた、お気をつけて。コントロールマニアックになりかけているかもしれませんよ。
最後になるが、変わりモンの中には人生のどこかで普通になろうと努力した時期(注1)のある健気モンもいることを忘れないでいただきたい。すぐに普通なんてものはないと気づいて、無駄だと思い知るわけではあるが。
注1 筆者に限ることかもしれぬが、これはとにかく普通の物件に住むといったことにまで及ぶ。間取りも内装も極めて普通で個性などいらないということだが、これには考えようによっては利点もある。例えば、変わった形の窓となると、それに合うカーテンやらブラインドやらを調達するのが一苦労だからだ。とはいえど、現在はそんなこともさして気にしなくなっている。
ここでまた10分間の休憩です。
あの山 この山 よも山ばなし
暑苦しさはそのままに、小説連載後に書いていた筆後感想文に代わって『あの山 この山 よもやま話』が始まりました。決して猛暑の中で読むものではありませんので、どうぞお気をつけて。
『季節のご挨拶』記事に入れ子にすることも検討したが、ますます長くなるわ、結局あとからぽろぽろ出てくるわで、やはり別枠にしました。
次回は参考にしている作家の言葉について書きます。
終わりに
鳥の話をするのを忘れていました。
今年もオオタカスポットでは、オオタカが松の木に巣をつくり、無事にヒナがかえり、数週間後に巣立っていきました。昨年より巣作りが早かったからでしょう、巣立ちも早まりました。
ピーヒョロロと鳴きながら二羽飛び立って、一羽が枝を咥えて戻ってきたところを見ると、今年はトンビも巣作りに成功したのでしょう。
安心していた矢先、物々しい光景を目にすることになりました。空高く旋回する二羽のトンビのまわりに無数のカラス。オオタカ、トンビ、カラスの三つ巴にはならなかったものの、トンビとカラスは戦っていました。しかしトンビは飛ぶのが上手い。だからトンビ(またはトビ)と呼ばれているわけで、空中戦となると人海戦術のカラスでも敵いません。代表で追いかけまわされたカラスが敗れ去ると、カラス軍団はあえなく撤退したようでした。
私はというと、そんな喧騒をくぐりぬけ、その先の松の木の下で厳かにオオタカの子育てを見守る鳥名人達に紛れ込み、鳥情報を教えてもらったり、衝撃画像を見せてもらったりしました。スマホ一丁でやってきて、ぼやけたオオタカ画像を見せてくるベテラン鳥素人(注1)の私を温かく迎えてくれる鳥名人達の何人かとは顔見知りになったりもしました。鳥好きというのは鳥以外に大して興味がありません。人の名前も鳥の名前だったら覚えてもらいやすくなる程度で、そんな鳥名人に顔を覚えてもらえるというのは大変名誉なことなのです。
そして草笛名人という新たな名人を目撃してしまいましたが、接触はしていません。なぜなら、たぶん草笛を教えてもらえることになって、できるまで帰してもらえなさそうだからです。いやまあ、できなくても普通に帰りますけどね。猛暑なんで。
そしてオオタカが去った今、鳥名人達も姿を消し、松林にはあっという間にカラス軍団が戻ってきましたとさ。
私ですか?
オオタカに捕食されるのは鳩が多いという事実と、むしられた鳩の羽が散乱する子育て現場にも慣れてきたところです。(注2)
注1 鳥素人具合がベテランの領域に達していること。
注2 オオタカはエサとして捕まえた鳥の羽を巣とは別の場所で全部むしってから食べる。ある鳥名人は、その場所を調理場と呼んでいた。
先日完結した短編小説『森のアコーディオン弾き』、いかがでしたでしょうか。
どうもこうもないのでしょうが、『ルチアーノ -白い尾のオナガ-』をお読みいただきますとより一層わかりやすくなります。森のアコーディオン弾きはルチアーノに出てくるアズーラの森が舞台となっているため、ルチアーノで既に書かれていることは割愛し、とにかく削ることに徹しました。つまるところ、不親切設計になっているのです。
今さらながら自分が書いているものが小説なのかどうか分からなくなっていますが、少なくとも物語だとは思っています。ジャンルについても、どこかに属したいわけでも、属せるとも思っていませんので、仮に聞かれたとしても答えようがありません。かと言って、これは〇〇というジャンルだろうと言われたとしても、それはそれでいいと思っています。
シリーズも始まります、と思います。
シリーズものではありますが、なにしろ変わりモンが書くわけです。毎回何かしら挑戦するたちなので、色々な回があるという点では面白いかもしれません。とはいえど、第一話(最初のエピソードの意)は軽めにスタートします。どうぞお楽しみに。
と、ここまで書いておいてなんですが、下書きを書いたのは一作目を投稿していた頃で、気持ちもその頃とは随分変わっています。投稿はやめようかと思っていましたが、書いたんだし出すかな・・・・・・といった感じです。
最後に草笛名人の鳥の鳴き声で締め括ろうと思います。
おそらくオオタカを模しているのだと思われます。
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潜っても 潜っても 青い海(種田山頭火風)