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ブックレビュー『番茶菓子』『雀の手帖』『崩れ』幸田文

道案内は標識だよりか蝶に頼むか、難しい時があります。
このモンシロチョウは、このあと電柱に激突して落っこちてしまいました。蝶は地面にいる場合、水分を補給しているか弱っているかのどちらかのようです。

番茶菓子』『雀の手帖』『崩れ

著書からわかる著者像

以前ブックレビューで紹介した『木』を読んで以来、文氏の他の著作もいくつか読んだ。一人の作家の作品を集中して読んだのは、三浦綾子氏以来かもしれない。
人というのはそんなに単純ではないから、著書を何冊か読んだからと言って私は文氏という人が分かったとは思っていない。たとえ一度会ったとしても、すべてが分かるわけではないのだから、著書を読んだぐらいでその著者を分かったと言うのは傲慢、でなければ思い込みなんじゃなかろうか。しいて言うならば、おぼろげながらも伺い知ることができたかもしれない、という程度だろう。しかしそれも、ほとんどはこちらが勝手に馳せる作業によるものだ。
 
上記を踏まえた上であえて言うならば、文氏は露伴さんの娘さんということを差し引いても、肝の座ったかなり気の強い女性よ言う印象がある。これは扱うテーマや文章の随所にみられる。
全国各地の崩れ現象だけを追い、それを一冊のエッセイ集にしたのもそういった文氏の姿勢の表れだろう。また、文氏は自然の描写を得手、あるいは好んで書いた作家であったが、『崩れ』では実際の崩れ現象の記述についてはそれを専門とする学者の方が優れているからという理由で、潔くそちらを引用するといった徹底ぶりを見せている。とにかく突き詰める性分でもあったとすると、『』を書いたことも頷ける。

情操の粒度

例の如く本の内容を詳しく書くことはせず、ここではエッセイ集『雀の手帖』のあとがきを引用したい。出久根達郎さんという方が寄稿した『幸田さんの言葉』と題されたあとがきはこう始まる。

文章の好き嫌いは、理屈ではない。
肌に合うか、合わないかである。

幸田文『雀の手帖』あとがきより

これには情操の粒度なんかも関係するように思う。粒度がぴたっと合う、または近しい作品に出会うと自ずと共鳴し、いいと思うのだろう。互いの粒度がかけ離れ過ぎていると、いちいち全部説明が必要になってくるか、どんなに説明をしたところで理解には至らないかもしれない。「つまらなかった」、「分からなかった」の一言で終わることもあるし、ヤボな質問をすることにもなる。
粒度の差を埋めることは難しい。各々おのおののそれがどの方向にどの程度張り出しているかという、ベクトルと広がり具合も関与するからだ。細かいほうがいいのか、粗い方がいいのかという話はここではしないが、一朝一夕でどうにかなるものでもないように思う。
例えば、文氏の自然をテーマとした著書を読む場合、まずはとにかく自然の中に行くことだろう。どの程度かと言うと、一体化するくらいだろうか。すると、何だか段々揃ってくる。
結局なにかと言うと、自然というものに興味がないのに終始自然について書かれている本を読破することは単純に考えても難しいし、目の前に提示されたところでなかなか読むに至らないということだ。
自然の中に行くことについては、先日ブックレビューで紹介した『Creative Act: A Way of Being』で著者のRick氏も推奨している。世のアーティストは大いに参考になるのではなかろうか。
それで何がどうかというと、互いが似たような参照リファレンスを持ち、かつそれが経験や体験を伴ったものであるから実感がある、ゆえに共感が起こりやすい状態になり、よって腑にも落ちやすい、と表現すると情緒もへったくれもないが、恐らくそういうことだ。
具体的な話になると更に長くなるからこの辺でやめておこう。

簡素でさらさらと流れる文章

文氏の簡素で流れるような文章は心地よい。学ぶところも多い。
今回紹介したエッセイ集に掲載されている作品は、当初新聞に連載されていたものが多く、ほとんどが一ページ程度で終わる内容となっている。それでもその中に物語ストーリーや起承転結があり、玄人くろうどは凄いと思う。
私はというと、文章はどうしても長くなりがちだ。フィクションを書く人なら分かると思うが、見えたものや見えてきたものを全部拾って書いていると、自ずと長くなってしまう。また、文章で表現することが容易ではないことも多く、世界も際限なく広がっていくわけで、すると情報量も多くなる。これでも随分制限して削っているつもりだったが、あとになって読み返すとそれでもまだまだだったということがよくある。装飾がなくとも伝わる表現というのを研鑽すべく、俳句を含め詩も書いているが、これも一朝一夕とはいかない。さしあたり、書く、 熟成させる(しばらく放っておく)、 読み直す、というサイクルをとにかく繰り返すよりほかないだろう。

美しい自然描写

自然の描写となると、文さんの文章は突如として瑞々しい美しさを増す。「突如として」と書いたのは、そこだけ浮き立つようでもあるからだ。これは単に私が自然の描写を好むからかもしれないが、いいなぁと思って、戻って読み返してしまう。情景が自然と浮かび、それが自分も見たことがあったりもするから、生きた時代は違えども文氏もこんな景色を見ていたんだなぁと感慨深い。
文氏ともなると、小難しいことを書いているかというとそうでもない。大自然や奥深い自然に触れていなければ分からないようなことではなく、五月は光の季節だとか、川で泳ぐ魚の腹が時々きらっと光るといった類の、確かにそうだなぁ、きれいだったなぁ、という比較的見たことがありそうなことを書いている。

文氏の文章が私の肌に合っている理由は、恐らくこんなところだろう。とりあえず理屈を考えてはみたが、やはり理屈ではないのかもしれない。


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麗野鳩子 | Hatoko Uruwashino
潜っても 潜っても 青い海(山頭火風)

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