フィルムカメラで街を撮ることは“パターン化されたエモ”じゃねえ。
有名なTwitter(現: X)のコピペの「もうパターン化されたエモ〜」というものを見たことがあるだろうか。
このツイート(ポスト)が大バズりして、改変コピペが大量に出回って大喜利状態になったのを見かけた人も少なくないだろう。
このツイート自体は自分もとても好きだし共感できる部分もある。夏になると決まってInstagramの投稿のキャプションに「夏ってだけでキラキラしてた」という文字とともにThe・エモの典型のような、このツイ主の言いたいEmotionalとされてる写真が投稿される。
それが1000いいねとかそれ以上を叩き出すことでそれがさぞEmotionalに思える不思議。
だけど、自分はこのツイートに一つだけ反論したい。
フィルムカメラで街を撮ることは“パターン化されたエモ”なんかじゃないと
自分はフィルムカメラが大好きだ。特にAF黎明期のゴミみたいなフィルムカメラが好きだ。直せる人もおらず部品もない。「ネオクラ」と呼ばれる'90-'00年代のスポーツカーとよく似た境遇のように思える。
正直を言えば、ココ最近はランニングコストの問題、フィルムの高騰・品薄でかなりフィルムカメラを使わずに来た。
それでも私は確信した。
自分はフィルムカメラで街を撮り続けたい。
エモのためじゃない。それが好きだから。
デジタルにない写り、質感、そしてなにより撮ってすぐにはわからないドキドキ感。
たった3枚の写真だけどなんだかワクワクしないだろうか。色味もなにも全く編集せずにこの写り。おまけにジャンクの箱から拾えば1000円せずにカメラは手に入る。ワクワクせずにいられるだろうか。
私にとってフィルムカメラは宝探しに似ている気がする。もちろん中判使ってる人や、もっともっとフィルムに打ち込んでる人が私を見たら鼻で笑うかもしれない。
どうぞ笑ってくれ。
初めに述べた「街を撮る」が都会のスナップのようなものなら、自分の写真は街だったり街じゃなかったりするけれど、これからもなにごとも“フィルムカメラで撮る”に重きを置いて、デジ/フィルムの両刀で街も、景色も、人もジャンルもなく欲張りに撮っていきたい。
それは決してエモのためなんかじゃない。