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【短編小説】 「フタツ氏の、じゃがいもと夢の時代」 (3400字)

 煮える頃だ。ふつふつと音で分かる。空の、水色と黄色の混ざった箇所だけ描き終わりたい。集中力を要する過程だった。もしかしたら、今回は勝負できるかもしれないという予感があった。一筆ごとに確信へと変わる。そうしたら、肉じゃがでもしようか。なんも要らないかと、笑う。自分を納得したかった。

 母がここを去ってもうすぐ半年になる。忘れられない味を再び、思い出す。それでもう悲しくもならない。今はそんな気がする。季節は確かに巡った。母は僕の前に姿を現さなくなっただけで、まだどこかで呼吸すると考えていた。親一人、子一人の人生。流石に、強く鍋が煮え立つ。我慢ならない。じゃが芋が溶けていく。嗚呼、愛しの君。
「君を食す時だけ、我は生き甲斐を感じる。恍惚と言った方がよろしいか」

 フタツは席を立ち、一度鍋を混ぜた。そして躊躇なくカレールーを投入した。瞬く間に香りが部屋に満ちていく。具材は大きめに切った。主役は肉でもライスでもないのだ。
 
 生活に困ることはない。日常物資は支給される。洗剤も牛乳も、下着だって。例えば、小さなヘアゴムみたいに、それぞれの需要が細かく供給された。ここには図書館だって、映画館も体育館、水泳プールさえある。日々、カフェで恋人は夜を過ごすみたいだ。
 時々、映画館で変わった人が出たと騒動になった。それだって一つの笑い話だ。出来事が人から人へ話され、伝わっていく。当然、面白い方が良いだろう?

”パチンコ屋の前でうなだれる若いスーツ姿の横を、にこやかにジャンプするホームレス風の初老を描いた絵”だった。

「時間を失い、富を得た人生を風刺として描く筆力」と高い評価を貰った。
 自分が描いた一枚だ。それまで、風刺のことを僕は何一つ知らなかったけど、彼が書く文章のお陰で僕はそれを知った。風刺。それから殊にそんなイラストレーションが増えた。増殖したと言ってもいい。通りに溢れ、じゃが芋を集めた。真っ直ぐな視線で描く絵は評価されず、暗喩が隠れるイラストばかりになる。皆少し、押し並べてひねくれたみたいだった。

 その時、僕は冷たく、通りを進んでいた。自分の子供が変形していく。それは悲しくも、寂しくもない、少しの怒りだった。少し、横目で見たけどね。正直に嬉しかった。それは認めないといけない。だが、軒並みの高い評価は瞬間、崩れ去った。自然の摂理だ。じゃが芋は他に散逸した。
 
 蔓延したシニシズムを主張する識者連もいた。氾濫はやがて、反感を呼ぶと。想像力の貧困は変わらない現実だと。ちなみに、彼らは常に後出しじゃんけんをするからあまり好きじゃない。風刺が衰えた理由は、単に絵のタッチに人々が飽きたというだけだと自分自身、考えたりもした。タッチを真似る、見分けが付かないほどに。
 今は思う。時代は巡るってだけだ。

 僕の風刺画を初めて評価する文章を書いた人物は、世の中に”トレンドセッター”と呼ばれていた。多大な影響力がある。有名だが誰も顔を知らない。「流行を作り出す創造者の役割と、やがて全て壊されることを運命付ける破壊者の役割を用いる」これもどこかの文章だ。 識者にしては分かりやすい。


 額に飾る。出来上がった空の色。描く対象は平凡だが、色彩はこれ以上なく描けた。目に写るより美しく、だが、瞳に確かに写してきたと信じられる景色。僕は現実を、より美しい現実にしたいだけだ。じゃが芋は嫌いになれないが、特に人から見向きされなくていい。可能なら、そのままを見ればいい。

 吐く息が白い。真冬だった。一つの額を外し、描いた絵の額をその木枠に嵌める。額が整然と横に並んでいる。一列の人生。ここからは終わりが見えない。一目で認められないほど、果てしなく続く通り。

 僕は少し離れ、最終チェックをした。この場所に飾られると想定して描いた筈が、やはり些かのイメージのズレはあった。光は違う。その中でも生きて欲しい。だけど束の間、魔法は溶けた気がする。自負する絵が凡庸になった。少しの後悔と違和感に、これまでの日々を思う。いつでも輝く命はないだろう。朝日を浴びて光ればいい。

 夜中、作業を行った。粛々と死を悼むように。人はいない。だが、どこかで見ている人がいる。今夜、僕の中の何かは無くなっていく。朝に吹き返すだろう。再生。僕と、僕の絵は同一なのだ。今度は再生そのものを描きたい。「絵を移す。場所を明け渡し、獲得する」
 
 僕は取り外した額と下方のじゃが芋を、空いている木枠の位置まで運んだ。置かれた箱にじゃが芋を移す。2つか。彼、および彼女はどう思うだろう。美味しいカレーを食べるだろうか。
 今日は明日まで待とう、と思った。

「芋がそんなに欲しいかい?」
 頷くが声は出ない。
「人生を棒に振ることを恐れないの?」
 振るほどの人生などない、そう思った。
 目が覚める。夢を見ていたことだけを知る。人生、母にそんなことを言った。与えてくれた体と心を尊ぶことなく、他を欲しがる。一体、これは冒涜だろうか?

 
 かつて、無名のトレンドセッターがポテトの絵を描いた。大量生産を否定するフライドポテトだった。一面のじゃが芋。皮肉、揶揄、創造性。どれも画角からはみ出している。当時の新聞の論調を覚えていた。
「過去のモダンアートを模しており、そもそも独創性など一つもない」

 後に振り返ると、新たな表現を認めない自身の柔軟性のなさより、古き世が舞い戻ってきてしまうことの恐怖を、識者は予感したらしい。
「帝国主義的なじゃが芋の萌芽」とまで記した。
 そこまで僕は、深読みしない。ファストフード的な世界観からの着想と、アイデアで押しきった力業に感心していた。参考にもなった。かつて確かにあった筈の物事を鮮やかに甦らせた手管。セッターはなかなかの勉強家だろうと思う。

 それから次々と発表されるイラスト。キャラクターになったポテト君。わびさびを感じさせる写実画。「石とじゃが芋」セッターは何故か、じゃが芋ばかりを描き、そのどれもが著しい人気を集めた。潮流は彼一人が作った。
 
 長らく、石が一種の報酬として扱われ、気に入った絵の下に各自が所有するそれを置く評価形態だったが、いつしか規定が代わり、石はじゃが芋になった。「じゃが芋」は貨幣になったのだ。生モノだが、武骨な形に人々は永遠を求める事となる。幻だって皆、分かっていた。信じたくなかっただけだ。

「じゃが芋は天下の回りもの」
「じゃが芋しか勝たん」
 コピーライターとしてのトレンドセッターが、どれだけ自らの宣伝に力を発揮したかは、僕は分からない。どんな経緯であれ、彼が時代の空気を作ったのは間違いないだろう。そして、それは高級品になった。フライドポテトは豪華なディナーだった。

 
 僕ら、右から左に移していく。帰路につく夕方。気持ちを寄せ合い静かに歩く。僕は遠くから見ていた。一人一つを手に取り、他の箱にそっと置く。神妙な手つきだった。分かっていた。一つを損ない、一つを加えることを。誰も胸が痛むだろうか。それとも、人々は何事にも慣れてしまうだろう。手に掴むのはじゃが芋だ。
 
 イラストの評価は生身の人間が行う。細かな規定はない。一度に一つの評価を決定する。以前は違っただろう。あるだけの石を、各々が懐から出し、自由に任意で置いていた。「チップ」と呼ばれていたらしい。
 全てをトレンドセッターが変えた。やがて腐る物体が、判断し、選択する僕らを急がせた。じっくりイラストを眺めるより、即断してどれが「悪い絵」代わりに「良い絵」と決めつける。向き合うことなしに好むだろう。

 周知の事実だが、石と違い、じゃが芋は長時間の流通に向いていない。そもそも目的が違うのだ。食べる物であって、貯蓄し、交換する用途ではない。数も限られた。しかし、その反転こそがセッターの慧眼だったのかもしれない。彼の行いが本当にどういった意味を持つのか、この界隈はどう変化してしまったのかを一度、ゆっくり考えたかった。卵が先か鶏が先か、という話かもしれない。
 
 おそらく、社会の微少な変化をセッターは別の形で写実しただけだろう。やがて来る運命の到来を早めただけかもしれない。今、僕が理解するのは、それ位だ。

 
 空の絵を描く。景色が現実に同化するまで。誰も分からず僕の絵を眺め、通り過ぎるのを夢見て。じゃが芋だって嫌いじゃない。気兼ねなく皆が食べられる日を待つよ。その未来、あるいはもう誰も興味を失っているかもしれない。誰が欲しがる、何にも成らないのに。そんな事ないか。
 
 いつだって、じゃが芋は美味しかった。


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