【短編小説】 18、初夏 (2200字)
午後5時半になるとバスが出る。一度、軽いクラスチョンを鳴らし、道路を左折していく。あの先は見えないし、知らない。おそらく人の生活だ。
働く、を脱ぎ捨てる時。今は想像するしかない夕げ。誰かとの笑い声、やがて、そこに帰ってくる人。
夕飯まで外を眺めていた。人の影もない木陰を。
部屋に戻り、ベッドに腰掛ける。窓辺。少ししか開かない窓。自殺がリアリティを持つ懸案事項らしい。あるいは他害の恐れ、か。
「一応は守られている」とそう呟く。
厳かな空間には、何を述べたかも不明に響くのも分かっている。今まで大方がそうだった。これからもだろう。
「僕が何を言っているか、君には分からない」
正確にも、漠然とも。
だからこそ伝うよう、賢くなれって話か?
ある日、教育と対話のリングから速やかに降りた。確かだ、無慈悲に降ろされたのだろう。あるいは自発的に。
日を追う毎に分かっていった。その間、誰とも話さなかった。
だからこそ今は愚かだ。
夕景の社会。
空白。
寄りかかることが消えた。今まで築き上げた、つまり、幼少期から社会に成り立った自分、または叶えられない自分。その両者で揺れ惑う悩みさえ失くなった。
過去に悩むことで確かめたのだろう。人を見下し、時に見上げ、社会と繋がっていた。
夕日を見る。「溶け合う永遠、水平線」
詩人の言葉が分かった。
「自分はここにしかない」
「誰の頭にもない、だから、もう気にしなくていい」
誰の目も届かない。去り行く人に手さえ振れない。
明かりが落ちるのは早いが眠る。自然の眠りではないが、ありがたい日常だ。現実さえ忘れられる。本当の僕さえ含まない現実。しかしそこには一つの呼吸しかない。
明くる日、手紙の到着を知らされる。消印は母から。一度、顔を見せに来たらしいが拒絶した。だってどんなことを言えばいいだろう。これから自分が何を通り抜けるかも、生きるかも分からないのに。
閉鎖病棟に入院すれば、自殺の理由としては確たることだった。誰だって「あの人、鬱だったらしいよ」と他所の自死を理解可能に構築する。おかしなものだ。鬱は死ねってか。俺か。
封筒を開けた。
同室の海野さんがペーパーナイフを貸してくれた。彼はよく手紙を書く。ほぼ毎日。受け取る手紙はそれよりずっと少ないみたいだ。その事について話はしないが、彼自身は納得している様子だった。
一方通行的、僕の今まで。
最も恐れていたこと。
「もう嫌がっているのに気づかずにいる」
一枚のイラストが入っていた。名前はなく、描かれるのは、なにとも分からない代物。不格好な幾つかの言葉があった。「空に小丈夫」「朝来たら、新しくも古く」「イン、ユア、ベッドルーム」「おやすみだけ言うよ」
それは一つの街かもしれない。A4程の大きさを眺めて姿が見えた。地図だ。ただし、子供が書いたには乱雑に端正だ。
あの日々、遊んだテリトリー。往復した階段。部屋とあいつの部屋。訳もなく人形を持ち出し、道の片隅に置いた。息を潜め生き抜いたか、果たして僕らの大切はまだそこにあるのかを翌日、確かめ合った。
夏の朝、ラジオ体操をしていた。
その前に待ち合わせをした。いつだって、言葉遊びは好きと言わずに嫌いと話した。止めてと言えば続けていた。楽しい時はつまんねーと叫んだ。野蛮。幼き日の僕らの言語だった。
別れた時、暫定的だと今でも言い訳をするが、切り出したのは僕の方だ。
「もうダメみたいだ、お前を巻き込みたくない」
はっきりとは言えなかった。だから、思い出だけは、これからの君だけは綺麗なままでいてくれと決して伝えない。
代わりに「全て、大丈夫だから」と話した。
何かを伝えたところで、と思った。
もう死ぬわけではない。
それだけの覚悟も確信もない。
いつしか既にそちら側からこちらを見ていた。
渦から引き返せない。
呑まれていく、消える。
あいつは少し笑って涙ぐんでいた。
それ以上は知らない。
見果てぬ未来を僕は知らない。
つい二年前だ、昨日とは違う。
「原田くん、ティッシュ足りてるかい?」
海野さんの優しさ。
以前に性欲はない、と伝えていた。
「泣いてるね」と表情をのぞきこむ。
「肩揺すらせて、なんもさ」と悪戯に笑う。
「抱き締めてやろうか」
沈黙に僕は首を振る。
依然、ベッドの上で外を見ている。
「大丈夫です」と言葉を振り絞る。
忘れられた呼吸を吐く。声の調子は平静だが気持ちは違った。
「あまり心配させんな。大丈夫だからな」
ありきたりな言葉はいつもあるから素晴らしいだろう。
夜が暮れ、どこかで灯火が消える。
午前5時に病室を出る。そこから遠くへは行けない。トイレで用を足し、いつもの位置に立つ。一本の木が生い茂っている。
ここに来るものは今はいない。だが今は、ってだけだ。変わった現在、それだけが分かる。
立っている、見ている。考える、思う。焦がれ、乾く。
僕自身さえ古くなっていくのを感じている。世界にこうして馴染んでいく。だから、次会った時があれば予想をしないことを言うのだ。
だけど、つまり、今は、未来に。
少なくともこう考えている。
何も諦めていない自分に気づく。
微笑む、笑う。一人で。いや、全てだ。そして遠くを思い、愛を感じる。
朝日はここから、直接は見えない。
麓から誰かが誰かを呼ぶ。
光はまだ見えるんだ。
僕さえ。おそらくではなく、君さえも。
あくびを一つした、真似みたいに。
立っていた。街が起き出すのを待っている。
やがて僕がいる道で影を踏む誰かがいる。
今、君は眠っているかい。
合図はないが、どこかで会おう。
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