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サラバ! 揺らぐ自分よ


なーんとなく暮らしの分岐点にいる私。

念願の重度重複障害児の発達支援の仕事が見つかった!と飛びこんでみたらあれよあれよと思わぬ部署に配属となり、それでもここでがんばればとがんばってみたけど、なんだか危なっかしいことだらけの職場で、家では息子の月が危なっかしいことになって、通勤に使う車も何やら危なっかしいことになって、思いきって仕事をやめた。

次なる仕事はやりたいことをやっている人がいる職場がいい、そして自分もやりたいことをやりたいと思って、週3のパートでは厳しいかと思いつつダメ元で応募したら採用された。

命を守る仕事をプライドをもって働く大先輩の中で何が何やらわからぬままに指示され動く。あちこちから声をかけられ体が反射的に動くだけ。頭が全く働かない。心も体もちぐはぐで完全に自分を見失った。自分が何をしたいのか。何をしているのかさえも見失った。ぐらぐら揺らぐ自分。情けないやら恥ずかしいやら。何もできなくなった。失敗する自分しか見えなくなって怯えてばかりになった。

そんな時に西加奈子さんのサラバ!を読んだ。上下巻もあってながいとひるんだけれど、読みだしたらすいすいとひきこまれた。ああ今の自分に必要な話だった。

欠落したものを抱えつつ、日々の暮らしの中で宝石を見つけたりする。でも、見つけた宝石を日々の暮らしの中でどこかにおしやってしまって見失う。そんなことはしょっちゅうだ。持っているはずの宝石の存在さえも忘れ、自分を情けなく思ったり、時に宝石を持つ大事な人をうらんでみたりする。

希望も絶望も喜びも悲しみもあらゆるものを自ら抱えておきながら、誰も助けてくれぬと嘆いてみたり、誰かに持たされたと責任を転嫁してみたりする。全ては自分だというのにだ。

受け身に自分の姿を消して生きることを選んだはずが、実のところ誰かに自分の存在を認めてほしくて、誰かが自分を幸せにしてくれるのを待っていたりもする。

誰かって誰だ。

私は信じる特定の宗教はない。神頼みもすれば仏様に手をあわせる。周りには信心深い人もいる。エホバの冊子を丁寧な手紙とともに届けてくださる人もいる。信仰を持つ人も持たない人も生きている。大事なことだ。信仰があろうがなかろうが同じ人間だ。かちずけられるものではない。

生まれたときから息をするのと同じように信仰があるというのはどんな感じなのだろう。私は信仰を持たないから遠藤周作さんや三浦綾子さんの本を読んだり、ダライ・ラマさんの本を読んだり、様々な国の映画の中で信仰を持つ人の姿を知った程度だ。信仰って何だ?


息子の月はミイラに興味をもって、即身仏になった人を調べていた。数年前は即身仏となった姿を見に行った。即身仏となった人、即身仏となった仏様を護る人たちの思いに触れた。

信じることの強さよ。

ぐらぐら揺らぐ自分にはない強さよ。

他者の幸せを祈り、自分の幸せを信じる人の強さよ。

生きていくのはたくさんの愚かさも受け入れて幸せへの道を探しながら歩いていくこと。

信じるものを見つけた時、道がひらける。世界がひろがる。

自分の愚かさも尊さもあらゆるものを受け入れる。誰かに見つけてもらうのではない。見つけるのも手放すのも全ては自分だ。その自分の幹を見つけ信じる。

サラバ!を読んだタイミングで肩の力が抜けた。失敗する自分も一生懸命やる自分も全て自分だ。見失った自分を取り戻そうと働かなかった頭がちょっと動き出した。

まだまだ揺らぐ。まだまだ自分の幹の輪郭ははっきりしていない。でもこれから自分で、幹の輪郭をはっきりさせて色付けしていく。

サラバ!




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