自己完結と発信
順調に取り組んできたはずの習慣化が、ここ最近では少し停滞気味になってきている。
今日まで続けてきたのだからと自分に言い聞かせ、重たい腰こしを上げて取り掛かるのだけど、それが日を増すごとに負担に感じ始めている。
緩やかなモチベーションの低下。
なぜこのような状態に陥っているのか理解したいと思ったので、改めて考えてみることにした。
もともと習慣化しているものに加え、今年の頭から取り組み始めたものを合わせると、現在10個くらいのタスクがある。
細かいものまで含めるともっと増えるけど、ここではある程度名前ををつけられるようなものに絞っておく。(名前のない家事のように、ちょっとしたタスクは割と沢山ある。歯磨きの際に、ついでに舌磨きもするとか笑)
無理なく継続できているタスクの例として、ラジオ体操や筋トレ、ランニング、ギターの基礎練習などの身体を伴う系を挙げることが出来る。
肉体への負荷は大きくても、頭を使うことなく取り組むことが出来るこれらは楽な部類だとも言える。
反対に、noteなどのテキストを書くことや、工作などの創作活動においてはは、無理やり継続を維持しているような感覚だ。
その日の調子によって進捗やクオリティにバラつきが出るし、なにより考えることは疲れる。楽だと感じたことはない。
ただ、例外もある。
入浴時に毎日ひとつ作っている短歌に関しては、ほぼノンストレスと言える。毎回、数分間ですぐに完成する。
たまに思うようにいかない時にあるけれど、それにしたって時間にすれば10分前後のものだろう。
短歌も創作系に振り分けられるようなタスクではあるのだけど、noteなどと比べると圧倒的にストレスが少なく感じるのは何故だろうか?
単純に文字数が少ないということもあるけれど、それよりも、完全に自己完結しているから、というのが一番の理由だろう。
完成したものを誰かに見せることもなく、スマホのメモの中に存在しているだけ。結構な量が貯まってきていると思う。ただ、出来た短歌はすぐに忘れてしまうし、見返すことも全くしない。
クオリティは完全に無視で、唯一守っていることは字余りを出さないこと。
これから先も公開することなく、メモファイルの数が淡々と増えてゆくことだろう。
このような自己完結で済むものは外部からの影響を受けにくい反面、常にフラットな感情で低空飛行し続けているような感覚だ。
これにひきかえ、noteのような創作活動は自己完結していない。
完成したアウトプットを公開し、他者の目に晒すことになるからだ。自己完結では無視出来ていたクオリティも、ここでは意識せざるを得ない。
始めた当初は他者の評価軸とは関係なく、あくまでも自分だけのために書いている…はずだったのに、他者からの反応が気になっている自分に気づかされる。
モチベーションの浮き沈みを外部に依存してしまっている構造だ。
結局、発信することは他者からの承認を期待した行動であり、本当に外部からの影響を受けたくないのであれば、自己完結出来るような構造を選択するしかないのだろう。
他者が介入することで得られる楽しみもあるし、損なってしまうものもある。他者を介入させないことで楽しみの純度を保つことも出来る。
どちらが優位というわけではないけれど、それぞれの特性を把握し、切り分けておくことが継続することのコツなのかもしれない。