わけもなく悲しいというけれど、わけはあるのだ。そこにあるそれがわけだとわからないか、あるということをわかろうとしていないか、わけの存在はわかるけれどわけの内容がわからないか、わけの内容もわかるのだけどわかってしまうことで認めてしまいたくないか、ともかく、わけなんかわかりたくない。
だめだと言葉にしたら「だめ」が確定しそうに思えた。だから言葉にならないようにしていた。なのに声に出てしまった。仕方がない。そう思っていることは事実で、無理やりないことにはできない。確定した「だめ」よ、安心してここにいればいい。無理に片付けたりはしない。飽きるまでここにいればいい。
今の自分は「だめ」であることが確定したので、思う存分だめでいることにした。昨夜は20時に寝床に入り、数時間は寝付けなかったものの、今日の13時まで寝ていた。昼食を食べに一度起きたものの、また寝床に戻りだらだらしてもう18時である。どうだ、だめだろう。え?だめの程度が低くてだめだ?
変わらず風邪の日々で、おとなしくしている。動かないでいると変化が少ない。それは安心なことではある。だが、変化からネタを拾っている身としては、変わらないがゆえのネタの無さには困る。動いて空気を変えてネタを発見しなくてはならない。変わることを恐れるな。健康へと変わることも遠慮するな。
くしゃみが出るのは風邪のせいだと思っていた。鼻水が出るのも風邪のせいだと思っていた。しかし、咳が出なくなったのにくしゃみは時々出る。くしゃみにつられて鼻水も出る。そしてなんだか鼻がかゆいような気がするのだ。これはまさか、風邪ではなく、あれか、あれなのか、認めたくはないがアレ(略)
いいことを教えてあげよう。つぶやきしか投稿していないと、ページビューが如実に減る。つぶやきは、他者のページ上におすすめ的表示がされないからだ。ということは、このレコメンド機能によって記事を見てくださる方が少なからずいるということで、ありがとう、noteのアルゴリズム。いい仕組み。
問題の全ては人間関係に発端すると思っている。自分のことだけ考えていればいいなら楽だ。誰かのことを考えなければいけないから大変になる。その誰かが複数になればもちろん事は複雑になる。皆が納得する最適解は簡単には出てこない。誰かが我慢してまとまったように見える。それが後に、問題になる。
「寒い寒い」とか、状況をそのまま口に出さずにはいられない時がある。言葉にしても何が変わるわけでもない。それどころか、言語化することで事態がはっきりと認識されてしまうではないか。なのになぜ口にしてしまうのか。こんな状況に対応している私、偉い。として自分を労っているのだろう。頑張れ。
Instagramにもアカウントがあり、ときどき投稿していた。過去形なのはこの1カ月ほど投稿していないからだ。投稿しないと決めたわけではなく、体調不良のため外出が減り、写真を撮る余裕がないだけだ。こうなるとは思わなかった。だからこそ、できるときにできることをしておいたほうがいい。
自分の中から何も出てこない。それも当然のことで、ここしばらく外に出ていないのだ。まず体調不良であるし、それを押し切って行動するだけの気力もない。主に横になっているだけの日々。何もしなくても自分の中に何かはあるだろう。だけど、その何かを育てていくためには、外からの刺激が必要なのだ。
あまり頑張っていないので、何も成果が出ていない。頑張ったら必ず成果が出る、というわけではないのではあるが、何もやらないでいれば何も起こらないのはあたりまえのことである。必ずしも頑張らなければならないわけではないのだが、何か起こしたいのならば、やはり頑張らなければならないのである。
そうだ、これを書こうと思っていたことがあったはずなのだが、忘れた。しかし「あった」ということは忘れていない。もったいない気持ちになる。忘れてしまった自分を責めたくなる。けれど、どれだけ悔やんでも、それは戻ってこない。ふいに帰ってきたとしても、その頃には「あった」ことを忘れている。
風邪をひいている。風邪だと思う。家族が風邪をひいているから。私は数日間外出していないから。家族の風邪がうつったと考えるのが自然だろう。それとも何か。家にいる私のところに風邪ではない何かがわざわざ出向いてくれたりするのか。そうだったとしても歓迎はしない。私に現れているこれは風邪だ。
印刷中にプリンターが止まった。数分待っても再開しない。多分だが、無線の電波が弱いため、通信がうまくいっていないのだと思われる。やはりケーブルも買っておくべきだった。無線は不安だ。見えないから。その点、有線はいい。見えるから。目に見える物のほうがわかりやすく、だから信じていられる。
私にとって書くことは希望だとして、ではそれが難しい状態にある今をどう捉えればいいのだろう。指を動かせば文字は現れるが、これで書いたことになるのだろうか。なってほしい。一文字も、文字が打てなくなってしまう可能性が怖い。どうか書くことが希望であり続けるようにと、願いながら指を動かす。
朝、目覚めたらすぐ飲む薬がある。朝食後、飲む薬がある。寝る前に、飲む薬がある。薬を飲むことで数値が整う。整わない数値でいることは体に良くない。だから薬を飲まざるを得ない。自分自身の力だけでは自分自身の体を整えられない。薬の力に頼っている。そのことが後ろめたく感じられる時も、ある。
ここしばらく「要するに体調不良」ということばかり書かざるを得なくて、読んでくださる方がいたとして面白くないだろうと思う。できることならば面白いことが書きたい。書いているうちに体調が劇的に回復しないものか。そうすれば「えっ?投稿で風邪が治る?」なんて記事の一つでも書けるというのに。
足りないものを数えてもきりがないと聞く。足りなさを嘆くよりあるものを数えたほうがいいという。自分に何が足りないのか。才能、魅力、技術、実力、資金、知識、余裕、愛嬌、体力、友人、栄光、愛情、意欲、運動、栄養、睡眠、時間、いや、意外ときりはあるのかもしれない。語彙が足りないのだから。
風邪をひいてだいぶ経つが、まだまだ咳がでる。こんなに酷い目に遭うとは、何か悪いことでもしただろうか。いや、この「罰」思考はあまり良いものではない。罰が当たろうとも当たらなかろうとも、悪いことはしてはいけないのだ。我ながら良いことを言ったと思うので、どうか罰を軽減していただきたい。
体調が悪くてずっと寝ていたのでネタがない。noteの記事に書くことがない。どうしよう。そう思ってから、一応の連続投稿目標は達成したのだから別にここで投稿できなくてもいいのだ、と気が付いた。もう、ないものを無理やりひねり出さなくてもいいのか。そう思いつつこれをひねり出した私がいる。
疲れやすいのですぐに眠くなる。今日の午後も眠くなってしまい、眠いなー寝たいなー寝ようかなーでも仕事を進めたほうがいいんだよなー眠いなー寝たいなー、を繰り返していた。実はこの眠たい状態で寝ようか寝るまいか迷っている時間というのが、寝てしまう時間よりずっともったいないような気がする。
昨晩、緊急地震速報が鳴った。地震が起こる可能性はいつにだってあるのに、何も起こらない日々が続くと忘れてしまう。弱いとはいえ余震も続き、なかなか眠れない。いつどこで何が起こるかなんて誰にもわからない。だから、毎日を大切に生きなければならない。なのに、おぼろげな不安に怯えてばかりだ。
「できる」人は「できる感覚」をわかっている。反対に「できない」人はその「できる感覚」がわからない。わからない状態のままどれだけ「できる」について意見されたとしても「できない」。できない人は「できる感覚」がわからないだけで、もしかしたらわからないまま「できている」可能性があるのだ。
久しぶりに掌編小説を書きました。「pixiv小説子どもチャリティー企画~ブックサンタ2024~」に参加しています。投稿された作品数×500円がピクシブ株式会社からNPO法人チャリティーサンタへ寄付されます。12/25まで。まだ書ける! https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=23664063
体調が悪い時には、体調が悪いということしか頭にない。何か他のことを考えられたとしても、それは人前に出せるようなものではない。だいたいがどこかに悪いところのあるものだ。体調が悪いにも関わらず、他者に気を配った言動ができる人こそ、本当にいい人なのだと思う私は、もちろんいい人ではない。
風邪が治らない。熱はない。急に咳き込む。喉が痛い。関節が痛い。痰がでる。どうも咳が長く残る風邪がはやっているらしい。熱が出ないので朦朧とするつらさはないが、咳で体力が奪われるつらさも大変なものだ。気がゆるんでいたからかかってしまったであろう私が言うのもなんだが、気を付けてほしい。
素でここへの投稿を忘れていた。危ない。今日書けば988日連続投稿である。ここまで来ると1000までもう一声、二声ではないか。とはいえ「うっかりしてました!」という感じで投稿をすっかり忘れてしまっても、それはそれでネタにするだろう。この根性が、連続投稿で身に付いたものかもしれない。
洗濯乾燥機に洗濯から乾燥までおまかせして、表示された終了予定時刻まで待つ。時間が来たので様子を見に行くと「あと20分」と表示されている。20分待って見に行くと「あと16分」と表示されている。「待ってあとちょっとだけもうちょっとあれば仕上がるからお願い」という洗濯機の心の声を聞く。
夜中に買い物をしていると気分が高揚してくるのはなぜか。単純に背徳感から来るものだろう。休むべき夜間に動いていること。電気を消すべき時間に点けてもらっていること。客の利便性のために店員を働かせていること。わがままを聞いてもらえているようで嬉しいが、買い過ぎてしまえばお店の思う壺だ。
酷く咳が出て止まらないのだが、咳を出さないように試みると、より悲惨なことになる。「うひ」みたいな声というか音というか、そういうものが出てしまうのだ。何の音かと訝しがられるかもしれない。咳が咳の音として出たほうが、周囲は聴覚的に安心できるような気がする。聞き苦しさは同じではあるが。
書くことは希望だ。多分。絶望ではない、と書こうとして、いや、絶望だって書く理由になると思い直す。絶望をそのまま書き残したい時もある。だけど、書くことで絶望を、絶望ではない何かに変換させられないかと思う時もある。だからやっぱり、何かを望むという意味で、書くことは希望なのではないか。
「いい意味で、あきらめる」という昨日の言葉は嘘だったのかもしれない。なぜなら今とても気分がよくないからだ。ポジティブに何かをあきらめられたのなら、もう少しすっきりとした気持ちになっているのではないか。自分の言葉でも自分が知らない力を持つことはあるけれど、それでも嘘はわかるらしい。
高校の同窓会名簿を作るので情報が間違ってないか返信してというハガキが来た。この時代にまだ名簿を作っているのか。載せたくない項目には「不掲載」と書いてとあったが、全部の項目にそう書けばいいだろうか。それでも名前だけは載るんだろう。載ったところで、誰かが思い出してくれる気はしないが。
昨日は、嘘を書いてしまったかもしれないとつぶやいたが、そうでもないというか、嘘ではあるのかもしれないのだが、そうであってほしいと思って書いたことで結果的に嘘になってしまったのではないか、と思うに至った。書いたことのようであればいいと思っていたのだ。つまりはその嘘は私の希望だった。
具合が悪く何か書けるような状態ではない。駄目な時にこそ面白いことを書いてみせるくらいでないと、とは思う。駄目すら笑い飛ばせたらいい。だが今は、面白いかどうかを判断する能力も駄目になっていると思う。人の不幸は端から見たら面白いかもしれないので、そう思う人は私を笑ってくれれば幸いだ。
それらしい単語をいくつかつなぎ合わせて適度な長さの文章にして、模索するとか、精進するとか、尽力するとか最後に付け加えれば、何か言ったような雰囲気になる。それでその場は収まるだろう。だけどその言葉は何も語っていない。そう思った人に疑念が残り続けることを、知らないはずはないだろうに。
旅に出ると、多くの人が移動していることを再確認する。同じ列車に乗る人も、どこの駅で降りるかはばらばらで、同じ駅で降りたとしても、なぜその駅で降りるかの理由はみんな違う。遊ぶ人も、仕事の人も。行く人も、帰る人もいる。ほんの少しすれ違っただけの見知らぬ旅人へ。密かに旅の幸せを願おう。
バスに乗って座席に座ったら、前の席には制服姿の小学生が座っていた。ぐにゃぐにゃしていた。ちゃんと座っていられないくらいお疲れなのであろう。人目など気にすることもなく崩れていた。子供だものな。その点、疲れてはいるものの他人の視線を気にして人としての形を保てている私は、大人なのだな。
福岡から大阪に移動した。両都市とも宿はビジネスホテルである。シンプルな室内にいると、ここがどこだかわからなくなる。まだ福岡だっけ、いや、ここは大阪。特色の無さは貧しいことだろうか。違いの無さは返ってすがすがしく、移動中の自分を際立たせる。旅をするだけでは特別にならない自分がいる。
雨風をしのげる家があり、寒暖を調節できる衣服があり、空腹を満たす食料があり、親しい人とやりとりができ、夜は安心して眠れる。そんな環境が全ての人にあってほしいと思うのは贅沢な望みなんだろうか。そんなはずはないと思うのだ。私だけが安全で幸福ならそれでいい、そんなはずはないと思うのだ。
抽象的な物事について話す際には具体的な話題を盛り込むといい。そうしたほうが受け手は想像しやすくなる。個別性のない曖昧な物事はそれぞれが自分の好きなように想像できてしまうため、これを伝えたいのにあれが伝わったりしてしまう可能性が高い。具体的に説明しよう。と、抽象的なまま話を終える。
この世はタイミングが全てだなんて、そんな意見を肯定したくはない。けれども数分前に店のラストオーダーの時間が終わっており、では帰るかと見たバス停では乗りたいバスが出発するところで、その後もなにかと間違いなほうを選んできてしまった今日は、やはりタイミングなのかと思わずにはいられない。
新しい薬を服用し始めてから調子がさらに悪くなっているようだ。鍼灸にかかった際に聞いたが、一つ効果のある薬には百の副作用があるという。百は多いにしてもだ。本来そうなってはいないところを強制的に整えてしまうのだから、周りに悪影響もあって当然だろう。そう簡単に、全てがうまくはいかない。
小説がほぼできあがった。私が言いたいようなことを、小説の主人公が言ってくれている。けれど、主人公は私ではないので、そうなんだ、そう言うんだ、そうするんだ、と思うこともある。キャラクターの言動は、筆者の思い通りに書いているのではないの?と問われたなら、ちょっとだけ違う気がするのだ。
何も考えずにパソコンの電源を落としており、ああ、noteの投稿がまだだったと気付き、それを重要な事として捉えていない自分に、だけど、驚かないのだ。そろそろか。やめる時なのか。中途半端なまま続けていることが当たり前になってしまった。見る人もそういうものだと、きっと思っているだろう。
今日はまだnoteに投稿できていない。しかし大変に疲れているので少し眠りたい。それで目覚められるならよいのだが、うっかり朝まで寝てしまったらどうするのだ。noteの毎日投稿が途切れてしまう。だけど眠りたいきもちのほうがつよくて、へんかんするのもめんどうでもうほとんどねているようで
音楽を流そうと思うとスマートフォンでSpotifyを立ち上げるようになった。今でもCDは買うが、パソコンにインポートする作業を何枚分も溜めている。まれにiTunesを立ち上げれば、懐かしい曲を次々聴きだしてしまい止まらない。こんな楽しみのために、音を貯めていくことも大事なことだ。
「例:すごく良い風景でした。」と、このつぶやき欄にはうっすら書かれていて、その一文を見るたびに、すごく良い風景について私は考える。何といっても「すごく」なのだ。そんじょそこらのちょっと良い風景には収まらないほどすごいのだろう。そんな風景を、いつかここで紹介できる日が来るだろうか。
今日はお休みの日にすることにして、寝たり、ぼんやりしたり、生産的なことはしないで過ごしています。noteの投稿もお休みしちゃえよ!と私の中の天使か悪魔かどちらかわかりませんが、がささやいたのですが、連続投稿継続への執着が勝ちました。よって140字小説の体裁で書いた次第であります。
ここに書くことがうまく浮かばなくて「書けない」ことを書こうとしている。しかし、そこまでして書かなくても、もういいかな、という気持ちも正直なところ強くある。連続投稿は私の執着だ。励みになるよりも、負担になることのほうが多い。ならばいっそ、などと書けば文字は埋まるのだから、いけない。