踏み出した右足の先にいた蟻を踏みつけずにホッとしている。 左の靴の裏は見ないくせに。
たとえば自分の考えを正義として捉えると、自分とは違う他者の考えを不義として捉えがちになり、結局のところは他者の考えを認識するのではなく、その考えを否定するために他者の話に耳を傾けてしまう。
不機嫌な人や怒りながら話す人が嫌いだ。 そんな人に対して不機嫌になり怒りながら話している自分はもっと嫌いだ。 結局は鏡を観ながら不機嫌になり怒っている。 鏡の前に立っているのは僕なのか奴なのか? 鏡の中に居るのは奴なのか僕なのか?
僕が描いている自画像の上に、悪気なく平気に線や色を足していく人がいる。 僕の本意は他人に彩られて、彩られたモノが僕の本意として外にでる。 僕は誰の自画像なのかわからなくなっているのに、周りの人はその自画像を僕だと思っている。 僕の本意はいつも、彩られた自画像の下にあるんだよ
ダサい自分も自分の一部です
自分のことをもっと好きになれるような自分でいるためにできることをやる。 ごめんなさいとかありがとうとか。
どうすればしあわせになれるかなんてわかるわけねえだろ! だけどしあわせってなんなのかをまいにちかんがえてんだよ!
正しさで生きている人は正しさで人を傷つけていることに気づかない。傷ついた人の多くは静かにその場を去っていく。
互いのもめ事を避けるやさしさが、 互いの距離を遠ざける。 そのやさしさからは何も生まれない。
昼酒の旨さにかなうものはない。 と、思ったら夕方でした。
近所にある川端の東屋で、コンビニで買ってきたパンやらを広げて、鯉や鳩に餌をあげている老人がいる。どうやら自分の朝食をあげていて、お裾分けという感じだ。 つい善し悪しの物差しで考えようとしている自分。 これはただの風景だよ、とブレーキをかける。
どっちが美味いのかを勝負しているのではありません。 なぜこうやって作ったのかを話し合いたいのです。 勝負をしたいのではなく、議論をしたいのです。
ビニールシート越しに見える店員さんの顔が歪んでオモシロいことになっていた。僕の顔もかなりオモシロいことになっている、と気づいたのは支払いを終えて店を出てからだった。
わたしの知っているあなたは、 わたしの中のあなたでしかない。 あなたの知っているわたしは、 あなたの中のわたしでしかない。 だけど、 あなたから見える風景を、同じようにわたしも感じてみたい。
「 弱音を吐いてもいいよ 」と言われても、弱音だけはあなたに吐きたくないの。
僕はあなたの味方です。
辛い気持ちのとき、自分の辛かった話をして無理に近づいて来る奴がいる。 あなたの辛かった話を聞いても、私の辛い気持ちは変わらない。 正直鬱陶しい。 でもね、感謝してるよ。
『お一人様1箱まで』の貼り紙につられてマスクを手に入れた。ちょっとホッとしたような満足感に浸りながら家に戻ると、メダカのエサを買い忘れたことに気付く。「ごめんね」と水槽を覗くと細身の一匹がいない。あきらめ気味に探してみると、裏の隙間で死んでいた。よくわからないけどマスクを恨んだ。
三歳のときに見た夕焼けのような朝焼けなのか朝焼けのような夕焼けなのか、あの橙の色が今も頭に残っている。兄の顔もアパートの壁も木の葉も空もあの橙の色になっていた。 あれから一度もあの色を見ていない。あの色は三歳の時にしか見えない橙だったのかもしれない。
見る場所によって姿形が変わるのが山で、その日の天気によって模様が変わるのが海で、場所や天気で機嫌が変わるのが私です。
むかし、好きな人がカンニングしているのを目撃してしまった。 気の弱い僕は何も言えなかったし言わなかった。 ただ、好きな人が好きだった人になっていった。 あの時本人に言ったほうがよかったのか、今も時々悩むことがある。
福祉の人たちは、共生とか多様性とか言いながら、支援者と利用者という関係性を絶対に変えようとしない。まずはその壁を崩してみればいいのに。
車を運転しているとき、横断歩道の前に人がいて、気づくのが遅れて止まれなかった。 『ごめんなさい』 と心の中でつぶやくけど、僕はいったい誰に謝っているのだろう。
こんなにワクワクするGWは生まれて初めてです。明日からのことを考えたらもう眠くなってきました。
年に一度の健康診断に行ってきた。当然、マスク100%。大事なところをマスクは隠してくれるけど、できれば早めにはずしたい。
何かのきっかけで人の悪口を言ってしまった。しまったというわりに悪気を感じていない。でも悪いことだよと悩もうとする僕。いったい僕は誰のために悩んでいるのだろう。
牛丼屋さんでおつりをもらうとき、絶妙な感じで手を添えてくれるお姉さんがいて、彼女からおつりを貰いたくて食べに通った時期もありました。 変なおじさんそのものなんですが、このご時世、彼女のことが気になってしまいます。
#2 最近そんな時間を他人に否定されることがあって、そんな意味のないような時間が自分にとって、どんな意味をもつのかを知ることになった。
noteは読んで楽しむ派だったのに、今の閉塞感をだしにして、短い何かを書く気になってしまったのです。 とりあえず、日々の暮らしで感じてしまう自分の弱さやもろさをさらけだして、僕が僕をなぐさめるために書きたいと思います。
石をどけたら、ダンゴ虫とわらじ虫とミミズと蟻が窮屈そうにしている。どれに生まれ変わろうと考えたらワクワクしてきたぞ。
周りがマウンティング族ばかりでキツイと相談をうけたことがある。 「逃げてもいいんじゃない」と、もっともらしいことを言ったけど、じつは僕もほぼ毎日どこかでマウンティングを受けながら生活をしている。 説得力はないけれど、やはり逃げてもいいと思う。
自分らしく生きているつもりでも、結局誰かの土俵の上で四股を踏んでいるぼく。
#1 川原の脇でボーッとしていると、鳥の鳴き声に耳を澄ましていることに気付いた。そう言えば、子どもの頃もよく同じことをやっていた。鳥や鳴き声が好きとかではなくて、ただ何となく聴いている。
右折禁止の角に立っていた時、そこを曲がろうとする運転手と目があった。平然と通りすぎる車を尻目に、通りすぎてから不機嫌な顔つきで車の尻をにらんでいる。僕はいったい誰に不機嫌になっているんだろう。